2018年11月20日火曜日

オズランドを観てきました

昨晩、(慌てて)家内と2人で映画「オズランド」を観てきました。
確か10月26日が上映開始だったと思うので、まだしばらくは上映されるのだと漠然とですが思っていました。
先日の白亜祭の際、玉名市の井上課長にこの映画のことを勧められ、「なるほど、では時間ができたときにでも行こうかな」と、なんとなく上映スケジュールを見てみたところ、驚きました。
なんと「11月22日で上映終了」とあるではありませんか!
上映開始から1ヶ月も経ってないのですけど。。。
終了というのだから仕方ない、「これはいかん」と作業の予定を変えて慌てて昨晩のレイトショーに出かけたのでした。


「オズランド」は田舎の遊園地という設定のグリーンランドを舞台にした映画です。
東京から見たら実際そうなんでしょうけど。。。
ただ、、私などは、宮崎に住んでいる頃、グリーンランドという”都会的な”遊園地などない”田舎”に住んでいたので、グリーンランドのためにわざわざ宮崎から家族で遊びにきたことがあります。
そんな”田舎”の遊園地に配属された("田舎"を不本意とする)新人が、そこで成長していく物語(成長を促す物語)としては、全体としてよくまとめてあり、ほんわかしていて、映画というよりもテレビのホームドラマのように楽しんで観ることができました。

新人社員に対し、「従業員が笑顔でないと子どもは寄ってこないだろ!?」と笑顔で話す新人社員の上司役の西島さんの言葉には100%同意でした。
その通りだと思います。
遊園地に限らず多くの組織でも同じことが言えるよなと思いながらの共感でした。
ただ、この映画をご覧になったはずの実際に働いておられる従業員さんはどういった感想を持たれたのだろうかと、そのあたりが実は一番気になりました。
グリーンランドの従業員さんたちはこの映画をどう評価されたのか、映画がを見終わってから私が感じたことでした。
今度グリーンランドに行ったときにでも、聞いてみたいと思います。^^


「笑顔の魔法おしえます」が映画のサブタイトルですが、その魔法の正体が今ひとつ私にはわからなかった。
魔法にかかってしまって何度か意識を失っていたからかもしれません。
あるいは、簡単にわからないから魔法なのかもしれません。
何れにしても、お客さんを笑顔にする魔法とは、そしてそれ以上に、従業員を笑顔にする魔法とはどんなものでしょう。
どの組織でも大事な話だと思うので、その魔法を知ってみたい気がしました。
だったらちゃんと目を開けて観とけよという話なのですが、それはおいといて。。

映画では、優れたリーダー(西島さんがその役でした)が献身的に周囲に奉仕していたようです。献身的な様子はあまり表現されていませんでしたが、献身的だったのでしょう。だから、トラブルの時、夜中でもたくさんの従業員が出てきたりした。
ほんと、現実にはあり得ない魔法のようでした。
献身的な貢献・・・
一例として、西島さんが、新人の女性社員を、朝、アパートまで車で迎えにいくシーンがありました。
そして、そのまま職場(グリーンランド)に連れて行き、車内で色々と教えるシーンが出てきました。
ただ、これを今の時代に現実にやったら、ちょっとですね。。。
西島さん以外は、ハラスメントとして間違いなく訴えられそうです。笑

全体としては楽しかったのですが、もう一つ気になったことがあります。
「田舎」という場面設定が使われているのに、それは最初だけで「田舎」の遊園地を盛り上げていく(活性化していく)部分の表現が弱かった。
もうちょっと創造的アイデアを盛り込み、「田舎」を活性化していくヒントをもらえると良かったなと贅沢なことも考えていました。
田舎の活性化の仕方をですね。^^
ただ、「お前、ふざけるな」との声がスクリーンの向こうから飛んできそうです。
安い入場料で、さらにケチって50歳以上の夫婦割で見ているというのに、それで、高度なコンサルをしてもらおうなど、なんたる贅沢なと怒られそうです。^^;

 
グリーンランドに行く前には、もう少し映画のことを振り返ると、あの場所の見方が変わり、新鮮なものになりそうです。
  

<余談>
こういった感じだからダメなんでしょうねぇ。
純粋に楽しめば良いものを、中途半端な知性が、楽しさを消してしまうという、つまらないことをやってしまう。
余計なことは考えず、遊園地は単純に楽しむ、あるいは映画もほんわかしているのだから、単純にほんわかすればいいのかしれません。
が、それを”中途半端な知性”が邪魔をしてしまうです。涙

社会学者の好井さんの本に、旅芸人一座をエスノグラフィー調査した京都大学の大学院生の話が出てきます。
旅芸人一座が繰り広げるワンパターンの演劇に対し心から笑える人たちとそれから一歩引いてしまう自分(その大学院生)を対比させ、その場を心から楽しめなくしてしまう中途半端な知性というのものに疑問を持つのです。ずいぶん前に読んだものですが、知性の限界のようなものを考えさせられるもので、今でもその本のその箇所は忘れられないでいます。
こうしたことを背景に持っているせいもあって中間報告会で特別講演をしていただいた山口記者の「山里の誇り」は非常に心に響きました。
中途半端な知性の問題については、その答えはよくわからないまま(答えがあるのかどうかもわかりませんが)、たまにこの問題意識を忘れないよう立ち返ることが必要かなと思います。

ゼミ生はこういった話には興味を示さないでしょうかね、やっぱり。
いつだったか、ある知らない学生が授業の感想に、余談が多いので普通に授業をしてほしいと言うことを書いていたことがあります。
この学生が何を余談と判断しているのかがよく理解できず、あれこれ考えてしまいました。
「余談=無駄」という公式の成立は、時間軸をどう考えるかで変わるからです。
私の息子とか普通の感覚であれば大学4年間はほぼ無駄に過ごしていました。
単位はほとんど取っておらず、GPAがあれば1を下回っていたのではないかと思うほどです。
しかし学部の頃の話を聞くと、非常に面白いものでした。
振り返るには早いですが、将来本人にとってはあの4年間は財産ではないかとも思います。
(最後の4年生の時にこの事実を知り、私も家内もハラハラドキドキ、スリル満点でした。^^)
(勇気を振り絞り、少しだけ少し先の未来を見て自分に)余裕を持ち、そしてそうした余裕を消去しようとする「中途半端な知性」は少しだけ括弧に入れ、その時々を心から楽しめるといいのでしょうけど。

 

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