今日の授業で「見える化」をテーマに話をし、その後、1年生に自分の身の回りにある事例を発表してもらいました。
アルバイトのシフト表、カラオケの点数、健康診断の数値などが挙がり、最後にスケジュール表というのが出てきました。
それぞれについてコメントしつつ(少しだけ白熱教室風←今のゼミ生はわかりますかね?)、最後のスケジュール表に関しては、「そう言えば、ゼミ生も全員がスケジュール帳を持っているな」と思ったので、受講生150名に「スケジュール帳を持っていない人?」と尋ねてみました。
手を挙げたのは、ひとりだけでした。
ひとり、強者がいましたが、ほぼ100%近くが持っているわけで、現代の大学生は、1年生であってもスケジュール帳を持ってないと大学生活が送れなくなっているわけです。
「そんなの当たり前じゃん」「だから何だ」と思うゼミ生もいるでしょうが、そこで何も疑問が湧かないのは今現在を生きているだけだからでしょう。
このことは、過去と比較すると驚異的なことです。
これが一昨日も書いた「縦との比較」から導かれた驚きです。
驚きというのは、知識に依存するようです。
昭和の時代を大学生として過ごした私とかは、私はもちろんのこと私の周囲でスケジュール帳など持っている大学生は皆無でした。
工学部の学生だったからかもしれません。
私の身の回りで手帳を取り出すような学生は一度も見たことがありません。
ひょっとすると文系の学生たちは少し違っているかもしれませんが、まあそう極端には違ってなかったでしょう、おそらく。
1年生の挙手の様子を眺めながら、この差異は何だろうとかと考えていました。
昭和の学生がスケジュール帳が不要だったのは、普段は、時間割に従って行動しているだけだったからです。
私や私の周囲はそうでした。
アルバイトなどが発達していない時代ですから、時間割がほぼスケジュールの全てで、それ以外のイレギュラーな予定は、わずかしかなかったので、記憶しておける程度でした。
非常にシンプルな時間世界を生きていたのが昭和の時代の学生であったように思います。
(ちなみに私は社会人になっても20年近くスケジュール帳を持たず暗記だけに頼ってました。40歳近くまでそれで破綻せずに過ごせてました。それほど何も予定のない世界を生きていたわけです。涙)
平成の時代を経て、それは一変したようです。
今のアルバイトは、私たちのころのアルバイトとは、言葉は一緒でも中身はまるで違っています。
アルバイトのために、面接があって履歴書を出すという話を学生から初めて聞いたとき、ひっくり返るぐらいに驚きました。
私たちのころのアルバイトは、単発で、ちょっと手が足りないから、この日だけ頼まれる類の完全に臨時的なものばかりでした。
今のアルバイトは、もうその時代のアルバイトではなく、ほぼ仕事の一環として経済活動の中に完全に組み込まれていることを、履歴書の話を聞いて理解しました。
現代の学生は、仕事の一環を担うようになっているわけで、そうなると当然、昭和の時代と比べて非常に複雑な時間世界を生きているんだろうと思います。
なんか、大変そうです。
一昨年まで副学長でスケジュールに縛られることが多かったので、それから解き放たれてから、今でもやることは多いものの(時間割に支配されてます)、それ以外のスケジュールは自分で管理することができるようになり、何とも言えない自由を日々感じています。
他者からではなく、自分で自分を律する自由というの意外に充実しているものです。
昭和の時代の学生たちは、スケジュールにない時間が多く、そのため自堕落になる自由と常に隣り合わせでしたが、一方で、それは何とも言えない充実した自由を手に入れる可能性もあることでした。
どっちが良いのかとか、その価値判断についてはよくわかりませんが、一つ言えることはそうした議論をする時間はあった方がいいかなと思います。
スケジュールが詰まっていて、議論を深める時間を持っていないということはあまり良いことではないでしょう。
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