火曜日は、卒論打合せ、ゼミ、そしてもやいすとと、朝から夜までゼミ生との熱狂状態を過ごしておりますが、翌日の水曜日は、祭りの後のようで、閑散とした中で過ごしました。
今日などは特に顧問をしているサークルの部長さんが印鑑をもらいに来たくらいで、非常に静か。また、時間的余裕もあったので、授業準備を済ませた後は読書に耽っておりました。
読んでたのはWeb3関係の昨年出た新書「Web3とは何かーNFT,ブロックチェーン,メタバース」という本。
最近、AIの話が巷に溢れ、少々食傷気味になっているため、AI以外でと手を出した本でした。
Web3についても礼賛する本が多い中で、あえて斜めから、批判的な意見も必要だろうとの思いで書かれた本のようです。ブロックチェーンについての章で、
最初はエリートが夢を見るのである。Webが登場したとき私は大学生だったが、先生たちが一番喜んでいた。「世界中の人が誰でも議論に参加できる!」と。私にはそんなにいいものには思えなかった。先生たちがやればそうなのかもしれない。でも、不特定多数の人が議論をすると荒れる。そもそも議論にならない。インターネットの登場以前から、電子掲示板は荒れていた。そして、それを見たエリートは幻滅して次のしくみを探しに行くのである。それを繰り返している。(181頁)
という個所がありました。まったくその通りですね。
これに関連することは、前にも書いたことがあります。
「熱狂」状態にあるとき、あえて冷静になり、熱狂から一歩離れた思考が必要です。
今だと、例えばChatGPTに代表される生成AIに関て熱狂的状況にあるような印象を持っています。生成AIは確かにすごい。私自身、ChatGPTが登場してすぐにユーザー登録し、熱狂し利用していた記憶があります。
ところで、こうした熱狂は意図と異なる状況を生み出す危険性をあることが指摘されています。これは、前にガリラボ通信でもそのことを紹介したことがあります。
⇒熱狂しつつも、冷静に~アラブの春のその後からの教訓(ガリラボ通信2015/3/22)
熱狂しつつ前に進むことの重要性は理解しつつ、(矛盾していますが)しかしそこであえて冷静でいることが大事そうです。
上の新書を書かれた方などはそのおひとりなのかもしれません。
熱狂といえば、コロナ禍で生まれた「オンライン」なども熱狂についての事例のひとつでしょう。
大学はほぼすべての授業がオンライン。
その間、キャンパスは閑散としてました。
ただ、多くの教員が当初批判的だったオンライン授業も、やってみると意外に悪いことばかりでないことに気づき、それで改めてオンラインが教育に問いかけている意味をじっくり考えた人たちもいたようです。
例えば 内田樹「コロナが学校教育に問いかけたこと」 2021/2/21
私も、そこそこですが、似たようなことを考えていたように思います。
他にもうひとつ、教員が気づいたことがあります。
それは、オンライン授業の準備は大変だということです。対面での授業は、コロナ前、大変だと思っていましたが、実はリアルで行う授業の方が労力はそこまでないんだということにオンライン授業をやるようになってから気づかされました。
さて、5月から新型コロナウイルスも5類となり、コロナ前の日常生活を取り戻し、キャンパスも学生で賑わうようになっています。
対面での授業が大いに復活したからです。対面授業は文科省も推奨しているようです。
ただ、文科省がそう言わなくても、諸条件を考えると、自然に復活していったはずです。
定期試験なども対面での筆記試験がかなり復活し、もとに戻る気配です。
オンライン化は不可逆的過程だと思っていました。実際、コロナ前と全く同じ状況になってはいないとは思いますが、しかしなんだか雰囲気的にはコロナ前に戻っているような感じです。
2020年4月からしばらく続いたドタバタ・アタフタしていた熱狂は何だったのでしょう。
せっかくの未曽有の経験だったはず。
創造的復旧・復興が望ましいはずですが、私の場合はなんだか単なる復旧・復興で終わってしまっている気がします。
学習能力が弱まっているせいでしょう、おそらく。orz