日々、生活している中で、 「楽しい」と思うときってどんなときでしょうか。
人はどんな時に楽しいという感情を持つのでしょうか。
心理学などでほぼ解明されているのだと思います。ただ、そうした一般論はさておき、自分自身は、自分の生活空間の中でどんなとき、どんな場面で楽しさを感じるのかは、誰も知らないはずです。
非常に個人的感情でしょうから。
ただ、そうした個人の中には当然ながら普遍が入っているはずです。
普遍=一般論とは、多くの個人が持つ共通点を取り出したものですから。
共通項でしかないので、一般論では個人を表現することはできません。
ということで、非常に個人的な感情の解明を目指し、4年生が自分が楽しいと思うときについて自己観察をする実験を行っていました。
(最終的にはそこから若い世代についての準一般論のようなものを抽出したいという思惑はありますが)
今日、1週間の観察結果を持ってきてくれました。
結果をみて、そのシンプルさに驚愕。
午前と午後にそれぞれでトピック的な場面だけの感情が書いてあるだけでした。
どうしてこれだけ?と聞くと、それ以外は「いつもやっていること」だから、記録しなかったということでした。
私の説明が大いに不足していることにこの時に気づいた次第。
単に「記録をとってごらん」では、こういうことになってしまうようです。
私の常識と4年生の常識はまるで違っていたようです。
それは当然。常識が異なるのは当たり前。まず、年齢が違いすぎます。
私がまずかったのは、その違いの存在に無頓着だったことです。
同じ常識と思い込み、簡単な指示で終わっていたのはまずかった。
コロナ禍前は私と学生との意識は、かなり一致していたので、ついその時の感覚のままで話をしてしまったようです。
コロナ禍以後、日頃のコミュニケーションが圧倒的に不足していることに改めて気づきました。
学生たちと一緒にやるときは、十分に話をして、双方の意識のすり合わせに注意を払う必要がありそうです。
社会人の新人教育もここが非常に重要だと、確か博報堂の人事の方がどこかに書いておられました。
阿吽の呼吸というのは昔のことであり、最初はしっかりと言葉を使って常識を一致させていくことが大事。
阿吽の呼吸の領域に達するのはそれができてからのこと。
ただ、このことは今も昔も変わらないはず。
昔は、自然にコミュニケーションする機会があったのでしょう。だからすり合わせについて意識する必要がなかったのかもしれません。
今の時代は、意識的にコミュニケーション機会を設けないといけない。
気をつけねば・・・と思いましたが、思い直しました。
もう来年度から私にはその必要はありませんので。^^;