経験と教育で著名なデューイが、100年も前にこんなことを言っているのだとか。
「教えること」や「学ぶこと」は、「売ること」と「買うこと」に似ている。
「誰も学んでいない」のに「わたしは教えた!」と言うのなら、「誰も買って
いない」のに「売った!」というのと同じだ。
(Dewey, J. 1910 How we think, p29)
中原さんのブログで知りました(こちら)。
商売の現場の方が、「売れないのは客が悪いからだ」と思う人はあまり考えられません。
商品が悪いのか、あるいは売り方が悪いのかとか、自分の側の問題として理由を考えるはずです。
普通はそう思います。
ところが、商売においても、その逆のことが起きることがあります。
例えば、ジャパン・アズ・ナンバーワンが世に出たころ、わが国の工業は世界で
トップの座に君臨しており、優れた技術をバンバン生み出していました。
私もその頃、半導体の微細加工技術に関わっていて、末端でしたが、なんとなく凄さを
感じていました。
トップクラスの結果(チャンピオンデータ)が日本から次々に生み出されていましたから。
技術は本来、人間社会にやってくる邪悪なものに対抗し、顧客のために存在するもの
のはずが、いつの間にか、客よりも技術が先行するようになっていった。
これは、トップから滑り落ちていった原因についての研究において理由として
よく言われていることです。
お客志向ではなく、技術志向になっていったのは、多様な要因があるかとは思いますが、
ひとつには、作る側(特にエンジニアの側)が、こんな素晴らしい技術なんだから、使わ
ない方がおかしい、という自分たちの論理だけの世界に閉じてしまったのがいけなかったのだろうと思います。
これは一種のおごり。
権力の座についたものが陥るワンパターンです。
その後、「驕れる平家は久しからずや」の通りとなり、現在に至っている。
現在、技術者のコミュニケーション力の問題が取り沙汰されています。
理由は、自分たちだけ、内輪だけの論理に閉じることのないようにとの考えが
そこにはあるのだろうと思います。
さて、先の誰も学んでいないのに、
私は教えた!
という主張のこと。
そこには強い権力意識が潜んでいるように思います。
こんなに優れた技術をどうして客は買わないのだ?
(極端に言えば)客はこの技術の素晴らしさがわからない、バカなんじゃないか
という本末転倒の思想を、内部的論理にだけ閉じる傾向にあった日本のエンジニアは
どこかに持っていたのでないかと思います。
これと同じ論理を「私は教えた」には感じます。
「私は教えた」という時、知的優位にいる人間が無意識に権力を振りかざしている側面が
少なからずありそうです(例外はもちろんあるとは思いますけれども)。
もっとも知識の場合、それを教えていくことは、その意味や意義が分からない人に
向けたものですから、商品を売ることとはかなり違うことは当然です。
かなり複雑なものになります。
だからこそ、「私は教えた」だけは拙いのです。
教えるだけではなく、学びを支援していくことが重要です。
しかしこれは教えることよりも何十倍も難しい。
難しいですが、自分の学びが停止し、自らの動きが止まった時、そうした権力指向が
強くなっていくように思います。そうなったとき、
教えたじゃない、何でわからないの?
と、権力の色をたくさんまとった言葉をつい口にしてしまう(反省)。
そうならないよう、常に動的であることを目指し、そして十全的参加を目指し、
オープンであること
閉じぬこと、
そして、問い続けること。
問いに生き続けること。
であっていきたいと思います。
ガリラボでは、こうしたことをやるための学びを場を設けていました。
しかし、そんな明示的な場が消滅して、もう1年半以上も経っているようです。
ラーニング探求塾ラスト課題(ガリラボ通信2015/3/2)
過渡な多忙さのせいにしたくはないものの、こうした学びがガリラボで激減している。
悲しい限りです。
その理由は実は簡単。
私自身が学びが動きを止めてしまっているせいです。
昔を振り返ってだけいても何の解決にもならないのですが、こんなプレイフル・
ラーニングを有志で勉強しているときは刺激的、非常に面白かった。
現在、ガリラボは色々な仕事をしていくベンチャー企業のようになって
いて、非常に活気あることは間違いありません。
しかし何かが足りないと思っていましたが、要するに、塾としての空間が足りないですね。
ガリラボは松下村塾や適塾のようなものだと思っていましたが、少しその要素が
足りなさすぎる。
どうしていけばよいか。
考えねば。。
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<おまけ>
ネットで、木彫りの自動販売機を発見。本当に利用できるのでしょうか?
斬新ですね。
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