チームたまらんが広報たまなに連載で寄稿している「たまらんセレクト」。
ほぼすべての回が埋まったのですが、残り1回分(2月号)をどうするかということになっていました。
当初は天水地区を取材しうかということになっていましたが、玉名市地域振興課のみなさんと話をしていると興味深いところが他にもあるということで、いくつかピックアップしてもらいました。
どうせなら玉名の「まち歩き」をしたいと思っていたので、提案に賛同し、たまらんに3か所の候補をひとつに絞りなさいと指示しておきました。
たまらんが選んのが山田地区でした。
地域振興課と私たちとの間の日程調整をし、本日午前中にまち歩きをすることになりました。
気温は低いながらも快晴。
9時に山田日吉神社に集合。
山田上・下区それぞれの区長さん(和田さん、宮さん)に案内人になっていただき、お二人に従って、私とたまらんの3年(16)大塚、地域振興課からは平野さんと荒木さん、そして飛び入りで市役所の徳永さんも参加され、山田のまち(集落?)を練り歩きました。
歩き始める前に、川西さんがやってきました。指揮棒事件の最後のプレゼントに同封する手紙を私から受け取るためです。
手紙は昨日、4年(15)八並が仕上げており、それを手渡しました。
「一緒にどうだ」と誘いましたが、仕事の途中だったでしょうから、さすがに市役所に戻って行きました。
山田日吉神社は藤ですごく有名なところです。この見事な藤は、この地区の皆さんが輪番で手入れをされているのだそうです。
すごいですね。
何がすごいかって。そうした輪番での手入れがこの地区では何百年も伝承されてきたということです。
もうほんとにびっくりしました。
藤が綺麗だと表層的な感覚だけを味わうのではなく、この地区のそうした伝承の力が藤の花の背後にあることを知って鑑賞するとまた違うものが見えるのかもしれません。
山田地区は、宗教都市、宗教によって形成された地域だったようです。
神社の参道に沿ったあちこちに、神社に関係する「●●坊」という行者(山伏)が祀ってあります。この地域は越した行者の生活が起点となって発展していったようです。
日吉神社からまっすぐに、海の方向へと伸びる参道を下りながら、12坊の祀られているところを散策してきました。
民家の庭に石碑があり、しっかりと管理されていて、この地域の人々の生活の一部になっているようでした。
ある民家の方には直接お話を伺ったのですが、毎月1日と15日はお参りをしているということでした。
また毎年1度は祭りがあり、その祭りは記録がされ、そうした記録のすべてが室町の時代から継続して残っているということで、さらにその記録が特定の民家に保存されているというのです。
それを聞いて目の玉が飛び出るほど驚きました。
500年もの間、神社のような特別なところでなく、この地域で民家でそうした記録が伝承されてきたというのです。
果たして、そんなところがこの山田地区以外にあるものでしょうか?
山田地区は、室町の頃から、宗教が生活の完全な一部として組み込まれている地域でした。
行者の祀られているところは民家だけでなく山中にもあり、見学に行きました。
行者の見学を終えた後、高台なっている山田地区とたの地域を結んでいた石橋を見学してきました。
変わった造りです。
よく壊れないものです。新しい橋ができるまで、これが山田地区と他とを結ぶ生活道路となっていたようです。
「十六橋」と命名されていました。明治16年に作られたようです。
山田地区を歩きながら、3年(16)大塚が区長さんに色々と取材をしているようでした。
9時から2時間ほどでしたが、驚くべき事実に接しながらのまち歩きでした。
山田地区という地域のすごさを実感させれました。
普通は、神社の世話を交代でするとか、新しい世代とか嫌がるはずです。
ところがこの地区は今でも交代でそれが可能なのだそうです。
しかもこの地域は昔ながらの家ではなく、新しい家が多くあるのも印象的でした。
普通は、そうした新しい家がたくさんあるということは、文化の伝承が難しくなると思うのですが、この地域はそうでないようです。
神社(お寺も)という宗教性が地区にそして人々に埋め込まれ、現代も生活の中に息づいている地域であり、非常にまとまりのある地域だと感じました。
お話を伺った区長の宮さんと和田さんにお礼を伝え、11時過ぎに解散しました。
面白かった。
急ぎ熊本市内に戻り、大塚を大学で降ろすと私はすぐに芦北町役場に向かいました。
観光うたせ船の検討会議の決着の日でした。
8月から始まった会議でしたが、意外にシビアなやりとりがあったりして委員長としては多少ハラハラもしましたが、とりあえず今日で無事に終わりました。
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