ラベル 大学教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大学教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年3月23日月曜日

九州大学のオンライン卒業式(学位記授与式)を見て

たまたま見かけた九州大学の学位記授与式。
本日が、いわゆる卒業式だったようです。
新型コロナウィルスの影響で全体式典については学生代表だけの参加でしたが、会場自体は本来のところで行われたようです。
広々した講堂の前方に総代の学生たちが座っているの見えます。
この式典はネットによって公開されていました。
少し前に私もそのやり方が今現在もっともベターなやり方だろうと思っていました(ガリラボ通信2020/3/13)。
九州州大学の場合、迅速にそれを決定したんでしょうね、1時間ほどの式典の全てがYoutubeでライブ配信されていました。


夕方、配信されていることに気づき、その時点で視聴数を確認してみたら4,000回ほどありました(下の画像参照)。
卒業生総数は学部・大学院あわせて2,300名ほどということだったので、きっと卒業生の多くがライブ配信を視聴していたのではないかと思います。


講堂はスカスカですが、ネットを通して多くの卒業生が参加したと思われます。
完全に中止するという選択肢はもちろんあると思っていますが、実施するのであれば、九大のやり方が卒業する学生たちのことをよく考えている方法だと思いました。
卒業生の2倍近くの再生数があったわけですから、数字にもそのことを表れている気がします。

県立大もせっかく(限定した)式典を開催したのだからネット配信があると、多くの卒業生があちこちで袴姿でいたのでたくさん視聴したのではないか、と。
ネットを介して一緒に卒業式を共有できたのでしょうけど。


今回の経験から、ネット社会になって久しいわけですが、ネットをツールとして活用していく術をどこも身につけていくべきでしょう。
ネットはもう専門知識など必要なく、TVと同じレベルの日用品と変わりありません。
学生たちは極めて普通に動画なども使いこなしています。
前にもこの通信で書いた記憶がありますが、飲み会の場でのゼミ生の行動に衝撃を受けたことをよく覚えています。道に迷ったゼミ生がLINEで連絡をしてきて、それ受けたゼミ生が「動画だして」と伝え、その後はTV電話を使ってお店まで誘導していったのです。
数年前のことです。4Gになって起きた行動変化だと思いますが、動画を何でもないごく普通の道具として扱っているゼミ生を見て衝撃を受けたことを覚えています。
5Gが始まるともっと強烈な行動変化が起きていくことは目に見えています。
ネットはまったくの日用品なんですよね、若い世代には。
日用品にできていないのは多くの大人なのだと思います。しかしそういうと「そんなのわかっている」と言われるでしょうが、それは頭でわかっているだけでしかありません。
ネットを日用品化できていない、頭でわかっているだけの人は、非常時にはそれは使えないのです。
熊本地震でもそれは明らかでした。日常的に使っているものでないと緊急時には使えなかった(私の研究室で調査した町ではほぼそうでした)。
頭だけでわかっている世代に今回の新型コロナウィルスは、行動に関わる部分での課題を突き付けているのかもしれません。



2020年3月15日日曜日

予測困難な未来を生き抜く力を身につける

次は先日の週刊東洋経済に掲載されていたコラムです。
興味深い内容です。
ゼミ生は目を通し、今後何が必要か等、考える機会にしてもらえればと思います。


苅谷さんは、小中学校の学習指導要領についての中教審答申(2016)から「予測できない未来に対応するために」という言葉を引用されています。
実はこの言葉は、その4年前、大学改革についての中教審の審議でも使われていました。
次は、2012年の中教審の審議のまとめの表紙です。
タイトルに「予測困難な時代において・・・」とあります。
今の新型コロナウィルスなど、2020年が明けた2カ月ほど前は誰も予測していなかったはずで、まさに「予測困難な時代」を私たちは生きていることを今誰もが痛いほど理解してると思います。
その意味で、このタイトルは妥当なものであったのではないかと思います。


次は、この報告書の冒頭の言葉(まえがき)です。
経済を中心とするグローバル化は少子高齢化、情報化といった急激な社会変化の中・・・とありますが、予測困難さは、感染症や自然災害などもあるわけで、そうしたことに立ち向かう力が今後は必要であることはみんな実感でしているでしょう。


ただ、上記審議まとめは、最終的にはタイトルが変更され、最終的にその後「質的転換答申」と呼ばれる答申として公表されれました。
変更された理由はよくわかりませんが、今の状況からすると、「予測困難な時代を・・・」という表現の方がよかったようにも思います。



この先どうなるかわからないけれど、どういった状況になっても生きていくという強い信念を持つことが大切そうです。
予測困難な未来をたくしく生き抜いていくための力を養うための大学生活を送ってほしいと思います。


2020年3月14日土曜日

4月からの授業が気になります

4月まで残り2週間ほど。
1か月弱で新学期の授業が始まります。
そしてその前には新入生、在学生のオリエンテーションがあります。

何の連絡もないし、動きがあってる感じもしないので、わが大学はこのまま通常の状態に突き進むのでしょうか?
そうなると、わが学部の授業では、大ホールに300人が肩を寄せ合って座ることになり、それがほぼ毎日ずっと続くことになります。
新型コロナウィルスについての専門家会議が避けるようにと言っている次の3条件
(1)換気の悪い密閉空間
(2)多くの人が密集
(3)近距離での会話や発声
を満たす環境が大ホールでは完成してしまいます。
教員が一方的に話す講義であれば(3)は多少は緩和されるでしょうが、アクティブラーニングでもやろうものなら、(3)も満たし、大ホールは300人の参加するライブハウス化します。
もっとも一方的講義だけの場合でも休憩時間ごとにライブハウス状態になるでしょうから、意味はないですけど。


1か月後の未来がどうなるか、可能性のいくつかはもう見えているわけで、その対応は急を要する事態になっています。
卒業式の全体式典が中止との発表があったとき、入学式をどうするかはまだ検討中との話題がでました。
目がテンになりました。
入学式!? それよりも問題は2000人の学生が動き出す授業でしょう、と思ったわけです。
授業が1カ月以内には始まるわけですから・・・・。

アクティブラーニングの流れの中で、教員は大人数にも対応してアクティブラーニングを実施する授業のやり方を工夫してきました。
私自身が前期は1年生に対し、アクティブラーニングの手法を取り入れた大人数授業(150人ほど)を行なっているので、授業日程がどうなるかわかりませんが、授業をせざるえなくなったときのことを考え、上記3条件を避ける方法を考えておかねばと思っているところです。
コンピュータ室などは、もしもキャリアの学生がいたらと考えると、キーボードとマウスなどは授業中に汚染されるわけですから、一律全ての消毒を毎回やらざるをえなくなるはず。

そうした対応をすで終えている大学も出ています。
わが大学が卒業式の対応をようやく発表した日(3月12日)、同じ日に、名古屋商科大学は、4月からの授業をすべて完全オンライン化するとの通知を出していました。
しかもそれは、学内教員とは少なくとも合意をとった上でのことです(授業をやるのは教員なのですから、教員が合意せずにこんな決定ができるはずがありませんから。なので、教員は、すでにその方向での4月からの授業準備を始めていることでしょう)。
https://www.nucba.ac.jp/nisshin/news/entry-18871.html
時期的に、もう色々と決めていないといきなりでは教員が動けないでしょうから、混乱してしまうでしょう。名古屋商科大学の素早い対応を全国の大学が見習うことになるのだと思います。

ところで、名古屋商科大学は卒業式の中止は2月28日の時点で通知していました。
そしてこの大学が気が利いているのは、今年は中止にせざるを得ないけれども、今年卒業する卒業生には、来年度(1年後)の卒業式に参加してもらえるようにしていくとのこと。
参加できる卒業生は少ないとは思いますが、なんて粋な計らいだろうかと思いました。
危機的状態でのプロアクティブの3原則に則った行動をとり、そしてそれで生まれる不都合まで修復していく措置を考えておられるわけで、驚きます。
誰かひとりでこんなことを考えただけでなく、チームで考えて原案を出しているのに違いません。
そして、卒業式中止に関わる件は教授会にて検討もしていたようです。
それに比べ、私などは中止の決定を学生からの連絡で知りました。orz


リーマンショック並み、あるいはそれ以上の経済的打撃を世界中にもらたす可能性も現実味を帯びてきています。
現在、各国政府が手を打ち、そういう事態にならない努力は行われているようです。
就活が本格化してきたときですから、今後は仮に内定をもらってきても内定を取り消さざるをえない企業(倒産する企業もあるでしょうから)なども出てくる可能性が考えられます。
素早い大学はそんなことも見越し先手先手で、キャリセンターなどでは対策など考え始めているのだろうと思います。
2020年はほんと試練の年になりそうです。



2020年3月11日水曜日

ゼミ生とのオンラン会議の特徴/ハーバード大学の決断

今日は玉名市での会議の予定でしたが、玉名市での感染者発生(現在はもう退院されたようです)を受けて即座に中止が決定され、メールでの必要最小限の会議となりました。状況的には感染のリスクの高い3条件が揃うことはないと思いましたが、リスクに関しては「疑わしきは罰する」方式で中止と判断されたようです。
セキュリティの分野では「疑わしきは罰する」が普通の思考パターンのはずです。
今はまだ新型コロナウィルスの挙動の実態は解明されたわけでもなく、見えない相手なので、今現在がひょっとすると蔓延している可能性もないことはないわけで、非常に質が悪い状況です。
セキュリティ(安全性)については慎重であることにすごく大事なことです。
 
授業で少しセキュリティの話をする機会があります。
私がもしもこの現状において、状況を無視した判断をして行動することは確信犯だと非難されるか、軽率な行動だとして批判されるかのどちかでしょう。
それなりの立場にある人は、他者を、特に教員の場合には学生が絡むとき何の根拠もない中での「大丈夫だろう」との安易な判断は慎重になるべきであるはず。
セキュリティ上は、今現在、色々なところで「そこまでやるの」というレベルでの対応が不可欠だと思います。
今日はまたそのことを振り返る極めて特別な日でもあります。
3.11
特にセキュリティ(安全性)については気持ちを戒めないといけないと思います。
 
ガリラボでは、例年、休み中も大学院のゼミだけは毎週やっています。
しかし、今年は2月下旬から中止しました。
院生を受け入れるようになって15年目ぐらいですが、初めてのことです。
もっとも中止したのは対面でのゼミです。
毎週進捗状況をメールで連絡してもらい、それに返信をしていく形でのオンラインでのゼミは継続しています。
当面、3月末まではこの形でいくことを院生には伝えています。
M1(19)塘添、福嶋ともにそれぞれ個別に準備を進めており、4月には予備調査の結果が出る手はずになりました。
こんなにメールでのやりとりで指導したのは初めてです。
結果がどうなるか、非常に楽しみ。

さらに、今日はArtractの3年生と2回目のLINE会議でした。
15時からと約束しており、集合予定の5人がLINE上に集いました。

文字だけ会議ですが、事前に考えておくべきことを提示しているこもあるからでしょうが、対面での会議以上に全員から意見がでてきます。
無言ということがないのがLINE会議の特徴だと思います。


全員から満遍なくそして活発に意見が出て、LINE会議をやってみて、この点は、すごくいいことだなと感じています。

今、ZOOMが話題になっているので、ZOOMでのオンライン会議もやってみようかと思いますが、顔が見えると、意外にここまでの活発な意見はでないのではなかろうとも感じます。
文字だけだからという利点もあるのではないかと。
また、LINEでは前の意見を読み直しつつ、新たなに発言することもできるので、話が発散しにくい傾向もあります。
意見が残っている点はすごく良い点です。
そしてそれがもたらす利点がもうひとつあります。
今日は都合で会議に一人参加できなかったのですが、会議を終えた2時間後ぐらいに、
  会議内容、確認させていただきました。
とのLINEメッセージが入っていました。
便利~♪
コロナウィルス騒動で始めたLINE会議ですが、メリットを随分と感じました。
今日は1時間の会議でしたが、その発言記録は全て残っているので、議事録をまとめるのも容易です。
今日の議事録作成は、あみだくじを使って3年(17)西に決まったようです。^^


最近よくコロナウィルスのことを書いていますが、それほど大きな影響を私たちに与えるのに違いないと思っているからです。
転ばぬ先の杖ではありませんが、プロアクティブに、危機意識を忘れず、出来る工夫を色々とやっております。

そんなとき(?)衝撃的なニュースをSNS経由で知りました。
ハーバード大学のことですけど・・・
ホームページをチェックしてみると・・・、Moving Classes Onlineと特記されています。

https://www.harvard.edu/covid-19-moving-classes-online-other-updates

COVID-19とは、新型コロナウィルス感染症のことのようで、コロナウィルス感染拡大を重大視し、ハーバード大学は全ての授業をオンラインに移行するのだそうです!
全ての授業をですよ!

ハーバード大学のコロナウィルスの特設サイト
 https://www.harvard.edu/coronavirus
を見てみると、注意事項がいくつか書いてありました。(Google翻訳を使ってささっと)眺めていくと(Google翻訳便利です)、

We will begin transitioning to online instruction for all graduate and undergraduate classes. The goal is to complete this transition by March 23.

ということで、3月23日までに、学部と大学院のすべての授業をオンラインに移行するのだとあります。そして、

Students are asked not to return to campus after Spring Recess and to meet academic requirements remotely.

と、学生は春休み(3月22日までのようです)後はキャンパスに戻らないようにと衝撃的な指示が書かれていて、そして、今後大学での必要なことはリモート(オンライン)で行っていくようにとあります。
たぶん4・5月の授業はオンラインとなりそれで4年生とかは卒業することになるのでしょう。
米国でコロナ感染患者が発見されたのは、日本より随分と遅く、つい最近のことですから、対応の早さに驚かされます。
国内大学の卒業式中止といった英断に思えた対応さえも、ハーバード大学の対応の前ではかすんでしまいそうです。
もともとハーバードではオンラインのインフラを持っているから、こんな大胆なことを急速にできるのでしょうけど、それしても全ての授業を、ですから。
凄すぎてしばし茫然としました。

何で茫然とするかというと、世界的に流行を始めているわけですから、右に倣えで世界中の大学でオンライン化が進行していくことになれば(今も進んでいるわけですが、それが加速度的に進む可能性もあります)、そして小学生も今はZOOMでオンライン授業を受けデジタルツールでの学びのやり方を学んでいるわけで、そうしたことが重なっていったとき、どういった変化が起きるのでしょうか。
単純にオンライン化の舵を切ればよいのか、それとも・・・他に考えておくべきことが必要なのかとか、コロナウィルスはビジネスの世界はもちろんですが、多くの場合、聖域におかれて安泰であったはずの教育機関にも重大な問題を突き付けているように思います。

まさか、2020年になってこんなに急激にこんな重大問題が起きるとは。
大昔だったら、そこの風土病だったのでしょうけど。
グローバル社会における感染症とは恐ろしいものです。
 


2020年3月8日日曜日

優秀な卒業生との別れ/一人当たりの労働生産性の問題

4月から新天地に旅立つOB(M08)佐藤夫婦を自宅に招待し、送別会をしました。
送別会といっても私と私の家内と佐藤夫婦の4人でしたけれど。
辛うじて日付は越えてませんでしたが、他愛もない話を深夜まで続けてしまいました。
大学内で彼と関わった人たちはみなが優秀だと思っていた人材なだけに、離れるのは非常に残念ですが、新天地の方が活躍の幅が広そうなので、快く送り出すことにしました。
地域づくりのプロとして今後は自分の学生たちを巻き込み、国内でも優れた佐藤研究室を作っていってほしい。


-----------
 
さて、午前中、国民1人当たりの労働生産性の各国比較についての次の記事
https://diamond.jp/articles/-/229993
を読み、衝撃を受けました。日本人の労働生産性って結構低いんですね。驚きました。



日本人のボリュームゾーンの教育の問題ともかなり密接に関係しているのではないかと思い、気になりました。
ボリュームゾーンについては、昨年の10月に似たようなことを書いています(参考までに)。
日本の現在の立ち位置を巡る話題ガリラボ通信2019/10/20

ユニバーサル化している大学は、日本のボリュームゾーンを受け入れている機関だということは上の通信にも書いた通りです。
大学だけの影響とはもちろん思いませんが、図表の結果は、大学教育の劣化も客観的に示すものなのかもしれません。
国全体の教育政策の問題とはいえ、個々には何を考え、どういったことをやっていかないといけないのでしょう。また、個々人は何をしないといけないのでしょうか。

NHKの番組「所さん!大変ですよ」で2月20日に放送された「なんでもかんでも動画時代!?」を録画していて、それも先日ようやく見ました。
https://www4.nhk.or.jp/taihentokoro/x/2020-02-20/21/2347/2121193/
そうなんだろうと頭では理解していましたが、これも衝撃を受けました。
番組の中で、簡単な文章の接客マニュアルも嫌がられるため(相手は日本人の店員さん文章では意図がなかなか通じないという状態でした)、それで、短い(!!)動画をつくって接客のやり方を紹介しているスーパーの取組みが出てきました。

いつぐらいだったかはほとんど記憶にありませんが、たしか1980年代だったでしょうか、米軍が米国の教育政策にかなり注文を付けたという話を聞きました。
マニュアルがあってそれを読み取る力が弱く、高価な武器を壊してしまうから、教育をどうにかしろということだったのだと思います。
とりあえずの対策として、マニュアルを挿絵をふんだんにつかったもの(要するに絵本)に変更したそうです。
それを聞いて当時の私たちは、レベルの低さに笑っていましたが、今は絵本でも通じない状況が国内で起きているわけですね。orz

頭ではそうだろうなとは思っていましたが、番組をみてやはり衝撃でした。
このスーパーでは、動画による紹介を導入するようになって若い世代の離職率が下がったとか。。。
「文字を読むのが嫌いなので・・・」との店員さんのインタビューも出ていて・・。
もうなんというか、これを見ながら、今後はこうした動画を見る人と作る人に分かれていることになるんだろうなとも思いました。
これまでもっとも大きなボリュームゾーンであったはずの中間層が2極化を始めているということでしょうか?
労働生産性の問題はこうした事実にも影響されているのでしょうか。

なんだか小手先の修正では解決が不可能なほど問題の根が深くなってしまっている気がしないでもありません。
そんなことを議論するとき、佐藤などはうってつけの人材だったのですけど、離れていくわけで非常に残念です。


ところで、文字の多い(?)このガリラボ通信も、ひょっとすると、ゼミ生にはあまり読まれていないのかもしれません。どうでしょう?
もしもそうだったら、ちょっと悲しい。orz



2020年3月7日土曜日

「まちをかける」を紫苑会に寄贈/創造的コロナ対応?

先日届いた書籍「まちをかける」を3年(17)岩奥ゼミ長が同窓会「紫苑会」事務局に寄贈してきたようです。
同窓会のFacebookで紹介されていました(ということを紫苑会事務局から教えてもらいました^^)。


同窓会で何かの役に立つとも思えない書籍ですが(笑)、卒業生のことも掲載しているのでまあ何かの情報にはなるでしょう。
 

この本で一番多くのページを割いているのは玉名市との連携部分なので、来週には玉名市の関係者に配布する予定でしたが、コロナウィルス騒動で予定していた会議が中止になり、持参できなくなりました。
4月の第2週に開催予定の会議でさえも保留(場合によっては中止)となりました。
こんな時期に主催者も火中の栗を拾うこともないでしょうから会議中止は当然の判断かと思います。
来週の会議については、事前にもらっていたら資料を読みそれに対して書面で意見を伝える形で会議が行われました。
テレ会議というか、文通会議です。^^

どういったルートで感染するかがまったくわからなくなってきているので、注意をするのに越したことないですね。
玉名の関係者の皆様には、コロナ騒動が落ち着き、玉名に出かけることができるようになってから書籍を持参したいと思います。

コロナ騒動はここしばらく沈静化することは難しくなる気配です。
熊大は3月下旬の卒業式を中止、福岡女子大学は4月の授業開始を半月遅らせるなど大学でも積極的な組織対応がでてきています。
熊本地震の時、私は教務・学生支援面での責任を負う立場でした。復旧に向け(色々なことを受けながら)色々な対応をしたことを思い出します。
今の状況はその時(あの時は熊本県内限定でしたが)と似ています。
非常時という意味で。
ただ、現在はあの時はよりも影響が遥かに広いエリアなので関心のレベルがかなり高く、なので熊本地震の時以上に諸々の注意が必要ではないかと感じます。
ゼミ生は、こんなとき、大人たちがどう行動するのかよく見て勉強しておくといい。
将来、自分たちがこうした危機的状況に立つことになったとき、どう行動した方が良いのか、そのためのヒントをたくさんもらえるでしょうから(社会問題として卒論として取り上げ、研究するのもひとつの手かもしれません)。
 
ガリラボでは、感染の機会をできるだけなくす努力を今後もやっていきます。
打合せはできるだけネット上で、キーボードの定期的消毒、どうしても出てくる必要のある時は石鹸での手洗い厳守、またひょっとして風邪かなと思ったら来室しないこと等々、個々人でやれることは最大限やっていければと思っています。

上でも述べたように、そしてせっかくの機会なので、こうしたコロナ対策の過程を利用して、これまでのやり方を反省的に振り返り、新たなやり方を創造していければとも思っています。
小学校ではZOOMとか使ってのオンライン学習が急激に発展する可能性もありえます。
子どもたちはほっておいても習熟していくでしょうが、一番手ごわかった先生たちが習熟せざるをえない状況になっていきそうです。
特に4月以降も今の状況が続くことになればなおさら。
一気にオンラインの流れが加速しそうです。
ただし、コロナ騒動が終わった後、子どもたちは学校に戻ることになるでしょう。
そうなったときに大事なのがオフラインのあり方。
オンラインをもしも十分に体験した後では、オフラインが従来と同じではまずい気がします。
一度オンラインの味を味わってからオフラインが元と同じであるはずがありません。
オフラインの在り方を、今から考えておく必要もありそうです。
大学の授業とかも、この機会に一気に革命へと突き進ませることもありえるかも。
もう私自身は先はないのであまり関係はないのですが、最後にそうした変革を体験してみようかと、思わないでもありません。

色々な場所で、現在の問題に対応しつつ新しいこと生み出す動きが起きているのだと思います。
そうした行動を「創造的コロナ対応」と呼ぶのもよいかもしれません。





2020年3月4日水曜日

もし今が何らかの変革が促されているとしたら、これを何革命と呼ぶべきか

先日、顔を出したOG(10,M14)吉村からのお土産がテーブルの上にあり、次のようにおいてありました。
3年(17)岩奥によるものだと思います。感謝の気持ちが表れている場面に接するのはなんか気持ちの良いものです。
くれぐれも、フリーライダーにはならないこと。
フリーライダーばかりになるとお土産を持ってきてくれる人は皆無になるでしょうから。


次のお土産はOB(M06)黒田からです。
昨日、菊陽町への調査協力依頼の件で連絡したら、お土産を手に急遽顔をだしくれました。
フットワークが非常に軽い!
地域調査について菊陽町を対象に行えることになりそうです。良かった。
ガリラボの強力な社会関係資本の存在を強く感じた昨日の夜でした。
巣立った学部学生200名以上、大学院生20名以上。半分ぐらいは連絡は簡単に取れるので、何かあったら相互に「ガリラボ」を縁にした社会関係資本を活用していくと良いのではないかと思います。もちろん、その際、フリーライダーになることは避けることは言うまでもありません。


黒田とは都合3時間近く2人で雑談してました。
ほんと色々な話題でした。
その中では今のコロナウィルス騒動も当然ながら出まして、オンラインでの様々な活動への転換点になるのかもしれないねぇといった話をしていました。
そうなると、後の歴史家は、この時の変革をなんと呼ぶことなるのでしょうか。
不謹慎かもしれませんが、これだけの影響を世界的に与えているわけですから、例えば「(新型)コロナ革命」などというのもあり得るかもしれません。
そうした名称をつけておきて、今後、こうした未知のウィルスあるいは未知の何かで困難に見舞われたとき、今回の経験を忘れないためにも重要だと思いますので。


黒田との話の中で外国語の問題も出ました。
つい最近もガリラボ通信で話題にしました。
消える仕事、生まれる仕事ガリラボ通信2020/1/15
自動翻訳の力が侮れなくなってきたことに私自身が非常に注目をしているのですが、つい先日Newsweekで「AI時代の英語学習」が特集されていました。


もしも自動翻訳が今以上に高度になった時、グローバル社会の公用語である「英語」という位置づけはどうなるのだろうかと問いかけがそこにありました。
英語圏以外の人たちとコミュニケーションするためには「英語」を用いるのが最も簡単だったわけで、その状況では英語習得は世界中のグローバルに活動している(英語を理解している人たちとの)コミュニケーションのために重要でした。
しかし、自動翻訳が日本語を直接先方の言葉に翻訳してくれたとすると、どうなるのでしょう。
今は日本語を何か国語にも翻訳しているツールがいくつかあります。
単純な話ではないことはわかっています。
しかし、自動翻訳の能力は今後も向上していくことは間違いありません。
そうすると、後10年も経ったとき、果たしてグローバル教育というとき、英語教育はどういう位置づけになっているのでしょうか。
グローバル教育についての認識は相当に変わっているのではないかと思います。


NHKの英語講座にもよく登場される著名な鳥飼さんが次のようなショッキングなことを語られていました。
1年程度の留学で身につける英語力ぐらいならばAIが簡単に代替してくれる時代です。
これも単純な話ではないことはわかっていますが、大きな方向性としては鳥飼さんの主張はかなり納得できるものです。


今後、自動翻訳は大きな影響を与えるでしょう。
さらにまた、先日もガリラボ通信で熱く語ったオンラインでの会議への移行はそのままオンライン授業普及の可能性を開くように思います。
小学校からのデジタルデバイスを用いた授業の普及は、10年もあれば(小学校3年生が大学生になります)、これらの変化を後押ししていくでしょう。
今どこもこうした変化への対応を考える時期に来ているのかもしれません。
 
今現在の大学生はどっぷりと過去の教育スタイルに浸ったまま社会に出ていくことになります。
10年後は社会は(コロナ革命?で)大きく変わっています。
今からでも遅くない。
浅い議論だけで済ませている現状を見直し、ややこしい本などにも挑戦して、深い議論(熟議)によって思考を深める訓練をしていくべきはないかと思います。
どうも、近年は徐々に深い議論に耐える体力が弱くなってきていると感じているのは私だけでしょうか。
 

 

2020年2月26日水曜日

LINE会議で決まった新チーム「たま応援隊」の活動方針(暫定版)

新型コロナウィルスによる感染拡大を考慮して、ガリラボでの会議を中止としたことは先日紹介しました(ガリラボ通信2020/2/25)。
今日が新玉名チームの会議の日だったので、前日リーダー3年(17)園田が提示してくれた議題に沿って、予定通り13時ぴったりに会議を始めました。
遅刻することなく、全員揃っての参加でした(多分)。^^;



最初の議題はまずはチーム名決め。
オンライン会議で、しかも文字のやりとりということで、盛り上がりに欠けるかなと思っていたのですが、全くそんなことはなく意見がバンバンと出てびっくりしました。
最終的に1時間ちょうど会議をしたのですが、その間に226件の意見が飛び交い、16秒に一度は投稿で、さらに途中で投票を2回も行い、実に充実した会議となりました。

チーム名決めの様子です。


チーム名について次の10案が出そろったところで投票に移りました。
 ・たまガーイズ ・たまミックス
 ・チムたま   ・チーたま
 ・たま応援大使 ・たま応援団
 ・たま応援隊  ・タマシックス
 ・タマガーリ  ・タマガッリクス
最初の投票で上位3つを選出しました。その結果、
・たまガーイズ
・たま応援隊
・タマガッリクス
が候補として残りました。そして、この3つによる決選投票。
6人中5人が投票して、たまガーイズ2票、たま応援隊2票、タマガリックス1票でした。
ひとり(17)松本が投票してなかったので、「おーい」と呼んだら反応してくれて投票してくれたのは良かったのですが、その結果、すべて2票づつの同点という・・・。orz
空気を読まない(17)松本。orz

最終的にリーダー3年(17)園田が投票していた「たま応援隊」に決めました。

その後、ツイッター運営の体制も決まりました。
発言をしたのは松原と宮嶋。
やりたいと言ってたわけではありませんが、発言をしたので、その場で指名しました。
3年(17)松原、宮嶋、そしてリーダー園田が担当します。
このメンバーで頑張るそうです。笑
 
さらに「今後やっていくこと」の議論になると、興味深い提案が相次ぎました。


色々と話が出たわけですが、次のことを新チームで挑戦することにしました。

(1)Youtuberたまにゃんの活動
この活動を継続する。
ただし、Youtuberによる情報発信形態が多様化している可能性もあるので、どのようなタイプがあるのかリサーチを行う。
例えば、何かをやってみたというよりも、日常の様子を流す動画に人気が集まっている傾向もあるので、例えば「モーニングルーティン」というようなものも動画として検討していく。
またこうした動画に地域広報の要素をどのように組み込んでいくかを検討する必要があり、これをひとつの研究テーマとする。

(2)着地型観光PR動画について
玉名市の着地型観光の広報動画作成を進める。どういった表現が動画として適切なのか、国内外の調査を行い、調査を踏まえて検討を行った上で、作成していく。

IoTなどの検討もありますが、それについては今後の検討課題にしていきます。
チーム「たま応援隊」は上記について役割分担して調査研究を3月はやっておいてほしいと思います。


LINEで、しかも文字だけを使っての会議というのも初めて経験したわけですが、今回の騒動がなければ決してやっていなかったことでしょう。
自発的にそうしたかったわけでなく、そうせざるを得ない状況のせいだったですが、やってみた感触は「悪くない」ものでした。
冒頭にも述べた通り、1時間の会議で6人+津曲のメンバーで226件もの投稿があり、かなり活発な議論となりました。
たまにはこうした会議もよさそうです。

ただし、この会議がうまくいったのは、参加メンバーの特徴を互いによく知っているからというのが大きな理由だと思います。
個々の特徴がわかっているから、それぞれの発言の背後にある広がりまで把握できるから、議論がかみ合っていったのだと思います。
その意味で、オンライン会議は、オフラインでの(今の流行語ともなっている)「濃厚接触」が前提であろうと思います。
そうした前提が成立していれば、たまにはオンライン会議を併用することも今後はありかなと思いました。
明日は新Artractともオンライン会議を行う予定です。
たま応援隊のメンバーとは特徴の異なる6人です。
どういった会議になるでしょうか。
せっかくの機会なので、明日の会議を通してオンライン会議の特徴をさらに理解していきたいと思います。

さて、今回の新型コロナウィルスによって、国内でこれまであり得なかったほどの規模で、テレワークやオンライン会議、オンライン授業という(意図せず)壮大な社会実験が行われていると考えてよいかと思います。
場合によっては、今回のウィルス騒動が、国内においてオンラインの活用に関して重大な変革を促すきっかけになるのかもしれません。
ただ、残念なことに大学に関しては、すでに授業が終わっているので、大学でのオンライン授業の実験はどこも実施しない(する必要がない)はずです。
残念です。
大学において全国的に実験が行われたならば、大学教育にひょっとすると非常に大きな影響を与える可能性もあったかもしれないなと、今日は、そんな感想を持ちました。
 
私の感想はさておき、とにかく、専門家会議のいう1,2週間を慎重な態度で乗り切り、ウィルス感染の連鎖が断切れることを祈ってます。

 

2020年2月16日日曜日

ガクチカの変化

タイトルの「ガクチカ」って聞いたことがありますか?

学生時代に力を入れたことは?という問いを表す言葉のようです。
就職面接の場で聞かれることの多い問いかと思います。

さて、みなさんのガクチカは?
年代によって、また学生時代に何を志向していたか等で、随分と異なる答えが返ってきそうです。
近年では、大学でのことよりも「スターバックスでバイトしていた」と答える学生が増えているという話もあります。
真偽のほどは分かりませんが、とにかく大学というキャンパス内ということではなくて、大学生という身分を持っている時に何をやったのかが問われているようです。

採用形態も変わってきています。
ナビを使って希望する就職を探すという方式から、自分の経歴を提示して企業側が欲しい人を探すスカウト方式に徐々に変わってきているという話もあります。
リクナビが登場したのが1996年頃のようです。
ちょうど熊本女子大学から熊本県立大学に変わったころです。
その後、このナビは全盛期を迎え、就活のやり方を変えていくわけです。
時代が同じなので県立大学の歴史と重なってしまいます。

20年が経過して、リクナビ形式のやり方が疲弊し、現代は情報の提示の仕方が逆になってきているようです。
以前は、リクルートやマイナビが、企業を営業して回って、企業の情報をサイトのアップしてそれを学生が閲覧する方向だったのが逆になっている。
最近はリクルート等に代わる就職斡旋企業が、学生たちに営業して回って学生たちの情報をサイトのアップして、それを企業が閲覧する方向なってきているのだそうです。

日本全体で会社というのは100万以上あると思いますが、その極一部の1万以下の会社がリクナビ等に掲載され、それを学生たちは閲覧(あるいは検索を)していた。
それは、学生からみたらリクナビ等が全てですから、学生には日本には1万程度の会社しかない存在していない状況でした。
それが今度は逆になっている。
OfferBoxというサイトでは学生が20万人ほど登録しているそうです。
大学生は50万人x4学年=200万人ほどいるはずなのですが、企業からしたらこの一部の学生たちが学生の全てのように見えているのかもしれません。




私のゼミの卒業生も勤めている「エン・ジャパン」という会社のサービスへの学生の登録は5万人ほどだそうですが、その多くが偏差値上位大学で占められているとか。
なんと・・・。


今後、何かの条件が課され登録できる人に差がつくようになると、どういうことになっていくのでしょう。考えるとちょっと恐ろしい。
 
OfferBoxやirootsのようなサイトの誕生は、県立大学が誕生したころに産声を上げたリクナビのような就活スタイルが破壊され、動き方が従来と真逆になっていくということかと思います。
さらに就職協定も廃止されました。
就職協定の廃止、企業の採用形態の変化は、学生の就活を一新されることになり、今、その大きな変革の時期に入ったと考えては間違いなさそうです。

この変革に対応するため、大学とかは、何かしないといけないのでしょうが、どうせまた逆ブレするのだから、そのままにしておけばよいという考えもありえます。
ただ、そのままにしておくにしても、議論をした結果としてそうするべきでしょう。
何も考えないのが一番悪いはずです。

ガクチカという問いにどういった反応をする学生が多くなるとよいのか。
「スターバックスのバイト」がもしも横行するようだと大学は不要ということになります。
社会の動きが変化しているとき、やはり考えないといけないことだと思います。
ただ、その考えるためのデータを特に持ち合わせていません。
感覚的にはもちろんわかります。
社会の変化、そして学生の変化も。
そうした変化は、主観的にはなんとなくわかりますが(データを使わない評論家的なレベルであれば色々と主張できます。このガリラボ通信もそのひとつかもしれません)、客観的にどういったことが起きているのかをほとんど把握できていません。
論理的に明晰に考えることができても、前提が間違っているのであれば正しく間違った結果に辿り着きます。
そうした過ちは歴史上いくつもありました。

最近、主観頼りで、データに裏打ちされた深い議論をあまり聞かなくなっている気がしないでもありません。残念です。
 

2020年1月20日月曜日

パワポ教員からYoutuber教員へ(?)

今朝見かけたネットニュースに目が留まりました。
日本のゆとり教育の方針を破壊するパワーを持っていたPISAの2018年の結果が出ていたようです。文科省が昨年の12月3日に公表していました。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/detail/1422960.htm
その結果の一部が以下の表です。


もう20年近く前になりますが、2000年のPISAの結果が公表され、その後、日本は徐々に順位を下げていき、PISAショックと言われるものを引き起こします。
ゆとり教育がその原因ではないのかということで、ゆとりは見直されていくことになります。
その後、一時、持ち直したのですが、今回の結果はまたまた衝撃的です。
ゆとりはあまり関係なかったということでしょうか?
原因はよくわかりませんが、PISAの結果は、日本の子どもたちはPISAの観点については中国都市部のの子どもたちに全く適わないという結果になっています。
特に読解力は悲惨。
ちなみに、2000年のPISAでは日本は読解力8位、数学1位、科学2位ということでした。

昨日も似たようなことを書きました。
そんなことを考えていたので、上のニュースが目についたのかもしれません。
今後、厳しい状況になっていくのでしょうか。

それと、世界人材ランキングとかいう順位付けもあるんですね。
どういったデータを使って数値化したのかよくわかりませんが、2019年は、調査対象世界63か国のなかで日本は35位だったそうです。アジアではシンガポールが10位で、香港15位、そして台湾が20位のようです。
この順位の中には「大学教育」も影響するようですが、そのあたりはもう調べる気力はおきませんでした。

今日は朝9時から20時まで昼休みに弁当を食べた30分ぐらいを除き、ひたすら添削作業をやっておりました。
3年(17)ゼミ生がまとめたインタビュー記事の添削です。
分量が多いので朝から晩までやってようやく3人分のインタビュー記事の添削を終えました。
次は今日終わった卒業生OB(15)宿利の記事です。


添削していると、話し言葉を書き言葉に直す部分が苦手なことがよくわかります。
話をしているときは、その時の文脈を共有しながらコミュニケーションしているので言葉を省略していても問題ないのですが、話した言葉をそのまま書き言葉にすると、文脈が欠落しているので何のことなのかほとんどわかりません。
私は内容を知っているので、どうにか理解して、その文脈を補ってやる(添削)が可能です。
きっと私以外(ガリラボ関係者以外)では添削は不可能かもしれません。
文脈を補い、意味が通じるように書くことがどうも苦手にしているようです(中にはよく出来ているのもありました。それは添削はさっと終わりました)。

もっとも、これは私のゼミ生に限ることでもありません。
そして今に始まったことでもありません。
立花隆氏が、東大生に取材させてそれをまとめる(調べて書く)ということをさせ本を作られてことがありますが(2011年のこと)、その際、文章を書く力の弱さ(格調高い文章ということはなく、意味が通るように文脈を補うという力の弱さ)に愕然としていしまったということを話されていました(ガリラボ通信2012/2/10参照)。
 
読解力の弱さは文章を作ることにも当然影響するはず。
そうした人は、難解な文章=読むのに高い読解力が要求される文章を作ることになります。
デフレ・スパイラルの始まりですね。

じっくりと本と向き合うような、格闘するようなまとまった時間を作れていないのがまずいでしょうか。
灘中の伝説の授業「<銀の匙>の国語授業」は無理にしても、何かした方がいいように思います。
そのうちに下手をするとマニュアルのような単純な文章も読解できない人が出現してきそうです。
そうなったら果たしてどうなるのでしょうか。
ひとつには、解説Youtuberが誕生して、その方が一派の人向けに動画で実演しながらマニュアルの内容を教えてくれるのが普通になっていくスタイルが常識になるのかも。
なんで本なんか持っているの。Youtubeを見ればいいじゃん。

もう現代はそうなっている気もします。
Youtubeで色々と情報を流す訓練をしていかないといけません。

そして多くの人がYoutubeでもって情報を摂取することに完全に慣れたとき、マニュアル的なものであれば、大学にやって来て授業を聞くという行動はなくなっていくことになるのでしょうか。
我々の世代の多くが「黒板とチョーク」から「PCとパワポ」にツールを持ち替えたように、未来の先生方は、さらに「ネットとYoutube」というツールに代替されているかも。
Youtuber教師があちこちに誕生するかも。笑
何の確証もありませんけど。
大学は随分と変化していきそうです。


2020年1月19日日曜日

大学入試に関する機会費用の話題(など)

センター試験がようやく、そして無事に終わりました。
来年からは「大学入学共通テスト」に切り替わるので、最後のセンター試験でした。
が、特に感慨なはなく・・。
ただ、ひたすら疲れました。

以下、疲弊した頭で思いつくまま書いたものなので、支離滅裂の文章のはずです。
推敲は一切してませんので、もし以下を読み進める場合は、ご自分で適宜補正をお願いします。
 

先日、週刊東洋経済の「経済を見る眼」というコラムがあって、いつもこれは楽しみにしているのです、今週、苅谷剛彦さんが寄稿されていました。
苅谷さんの「大衆教育社会のゆくえ~学歴主義と平等神話の戦後史」という1995年の本を読み、この本で、かなりの衝撃を受け、教育を捉える次元を多少なりとも上げさせてもらいました。
それから、苅谷さんの本はほぼすべて読み続けているほどの(コア)ファンです(笑)。

さて、今回のコラムにあったのが、何かを選ぶことで得られる利益とそれを選ばなかったときに得られる利益の差=機会費用の話題。
機会費用とは、その定義から、ある新しいことを選んだだことで発生する負の側面の意味合いも含むことになります。


今回の入試改革においてこの機会費用のことが厳密には議論されたふしがないとのこと。
国の方向性を決めていくはずの判断であるにも関わらず。
大学で決まっていくことも機会費用はあまり問題ならない。
花火的なことをやってないと評価されないからという面があるのでしょう。
確かに花火を打ち上げていった方が目立ちます。
打ち上げた人は良い評価をもらうでしょうが、打ち上げを終えた後、祭りの後の後遺症をもらうのはそうしたことを知らずに花火を見ていた人たちの可能性があるわけで、そうなると困ったものです。
気づいたときには花火をあげた人はもうそこにはいないという・・・。orz
プログラミング教育のことも例として挙げてありますが、これもその通りだと思います。
それをやった結果、犠牲になることの話をあまり聞きませんので。
私個人は子どもの時代は、じっくり読書をさせて、よい文章を書かせるトレーニングをさせた方がいいのだと思います。
3歳の孫がいますが、絶対にやらせたことは日本語をきちんと修得することです。
優れた日本語習得ために、プログラミングとかをツールを使うというので賛成です。
優れた思考は優れた自然言語からしか生まれません。
直感とかも、情報の基づく直感であって、それは当初は言語化されたものの圧縮形態のようですから。
日本語をネイティブにしているのであれば、日本語をしっかりと使えるようにすること。
それが重要だと思います。
ところが、どうも大学生でも日本語がかなり怪しい。
いや、大学生に限ることもないかもしれません。
苅谷さんのコラムを読みながら、そんなことを思いました。

2日間で体力を消耗すると、比例して思考する力も消耗していくようです。
その意味で思考は、言語と体力に依存しているはず。
疲れてくると、思考どころかマニュアル通りにやることも怪しくなりました。
今日は早く休みます。
明日からは、17ゼミ生がやっている域学連携研究の追い込みです。



2020年1月15日水曜日

消える仕事、生まれる仕事

元旦の日経新聞(電子版)に
 消える仕事、生まれる仕事-「職業」より個の力が鍵に
  https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53792110V21C19A2SHB000/
なる記事がありました。
そこに、「ポストエディター」「ライバー」という言葉が載ってました。

何かわかりますか?

現在、存在する職業(まだ市民権を得ているものではありませんが)です。


ポストエディターとは、AI技術等を使って自動翻訳した文章を、手直しする仕事だそうです。
一から翻訳する人は激減しているはずです。
まずは機械的に翻訳をさせて、それを人間らしい文章に修正する作業が、作業としては楽だし、出来上がった文章の品質は、一から翻訳するより良いはずです。
直感的にそれはわかります。
機械翻訳がなかった頃、まずは下訳を作成し、その奇妙な日本語を見直し、全体として滑らかな文章を作っていくのが普通でした。
今は、その下訳作業を機械にさせているわけですね。
AIとかは、そうした仕事をやってくれるわけで、やっぱりあると便利です。
ここでなくなる職業というか、仕事は、中途半端な翻訳力はいらないということですね。
高度な翻訳というか、文章作成力が要求されるようになることを教えてくれます。

この話、よーーーく私はわかります。
といっても外国語翻訳ではなく、日本語⇒日本語変換ですけど。
実はいまその真っ最中です。
ゼミ生から出てくる日本語を日本語にしていく、いわゆる添削というやつですが、これはポストエディターの仕事とほぼ同じだろうと思います。
ちなみに、ガリラボでは、出来た卒論を直接私に出して添削を依頼するのではなく、まず、自分のグループ内で添削をしてもらいます。ピアチェック。そのチェックを終えたものを私が添削をしています。
昔、直接出させていた頃に比べて、添削の労力が激減しました。
細かなミスはほぼ修正されているので、文章の中身だけに集中すればよくなりました。
ということで、昔に比べてガリラボの卒論の質は向上しているはずです。^^


ライバー。これは、ライブ配信をする人のことだそうです。以前は、知名度のない場合、路上ライブ等でしか人々との接点を持てなかったわけですが、便利なアプリがあるようで、ネットでライブ配信していけるようで、冬の寒い中での路上でライブする必要もなくなったわけです。
ただ、これも聴いてる人たちからすれば上手な人のを聞くでしょうから、競争がグローバルになってしまっている。
以前だと、隣の道路でライブやっている人との戦いだったので、いきなり日本中とかになるわけで、実力がないと路上の時よりも聞いてもらえないということなりそうです。

徐々に優れたスキルを持っている人とそうでない人とを分断していく見えざる力が働くのがこれからの社会のようです。

日経新聞のこの記事のサブタイトルは、”「職業」よりも個の力が鍵に”となっていました。
ただ、これは昔から本来はそうだったのではないかとも思います。
戦国時代はまさに個の力が重要だったでしょう。
まあ、そこまで極端に遡らなくても、平成でも、昭和であっても、安定した職業というのは、そのまま素直に受け取っていてはいかなかったのではないか、と。
職業は安定していても、本人がそこで安定しているかどうかは別問題だったのでしょうから。

単に安定だけを考えるのではなく(もう今はほとんどそんな人はいないのかもしれませんが)、個の力を伸ばすことに目を背けずにいきましょう。 


記事の載っていた消えた職業、生まれた仕事のリストです。
1960年代は「書生」という牧歌的仕事があったんですね。羨ましい。^^
また現代は「苦情受付事務員」という職業があるんですねぇ。驚きました。
時代はほんと変わっています。




2020年1月8日水曜日

%がわからない

昔、「分数のできない大学生」というのが話題になり、様々な議論がなされていましたが、その議論はあまり役にたっていなかったようです。
分数から進行して(?)、最近は「%が分からない大学生」という本が出版されたようです。
ある大学で、「%ってなんでしたっけ?」と質問される機会が増えたことへの気づきがこの本に繋がったとのことです。
%問題が、次の日経ビジネス
進むか教育劣化、ついに登場 「%」が理解できない大学生(日経ビジネス2019/12/10)
に取り上げられていました。

記事に中で次の問題が紹介されています。
塩の濃度の低いのはどっちかという問題で、直感的にすぐにわかるもの(はず)ですが、正解のBを選択したのは8割以下だったとのこと。


計算しなさいということだったら数値を間違えることもあるでしょうが、この問題は計算は必要なく、日々の生活の中での経験、常識でおおよそわかるものです。
濃度、割合というものの計算方法ではなく、割合ということの意味が理解できていないのではないかと心配されているようです。

ところで話は逸れますが・・・
では、昔は問題なかったのかというと、きっと昔でも、これをそのまま出したらダメだったでしょう。
例えば昭和の時代、大学が大衆化していない頃、大衆化した現在の大学生と比較する意味で20歳ぐらいの一般の平均的な方に尋ねると、もっと悪い結果になっていた可能性もあります。
ひとつには問いの文章の読解のところで引っかかってしまう可能性がありそうです。
読解力が低くなったとは言っても、教育を受けていなかった時代によりはきっと高いと思われるので、この文面のままで提示すると理解してくれないことも多いのではないかと想像されます。
もっとも、こうした文面ではなく、口頭で説明して、どの経験のことをこの問いが問いかけているのかがわかれば、「それはお前、Aがしょっぱくなるのに決まっている」とほぼ全員が回答されたのではないかとも想像しますが、どうでしょうか。

この時代だと、多くの人が(具体の)数学を経験する機会が豊富にありました。
(具体の)数学は生活、生きていくのに直結するものですから。
それが今は、生きていくのにそうした(具体の)数学を必要としない人たちも多くいるのかもしれません。
そうなると、こうした%問題とかも、自分の経験と離れて理解していかないといけないので一気に難しくなるはずです。
昔の人にとっては具体的な数学であったものが、抽象数学になってしまっている可能性があります。
抽象数学の理解は非常に大変です。経験からイメージすることができませんので。
理系の大学で数学を学んだ人ならばみなそう思うはずです。

%がわからない人たちは、%問題がひょっとすると抽象数学になってしまっているのでしょうか。

もうひとつの例を。

2億円は50億円の何%かと尋ねると、50÷2=25%と答える大学生もいるのだとか。
2は50よりもかなり小さいわけですから、それが25%もの大きな値になるのはおかしいと気づけば、計算方法の間違いに気づき、修正することができます。
平然としている大学生は、どうも、その気づきがないようです。
計算してでてきたものを常識としてチェックすることできていないという・・。
EXCELで計算させていると、よくそういう場面に遭遇します。
とんでもない値でも平気でいる学生は少なからずおります。

先の例の通り、数字が具体の世界とまったく乖離してしまっているのです。
数字は抽象的なもので、自分の経験との無関係になっているかのようです。

私も学生と接していて、こうした驚きの場面に遭遇することが多くなりました。
こうした驚きを大学教員は個々には経験しているはずです。
それを共有し、大学における課題へと転換させていく必要があるのだと思います。
しかし、それが教員集団レベルになると、リアル感が著しく弱くなり、現実と解離した抽象的な話に終始してします傾向になりやすい。
昨日もそんな場面に遭遇しました。
大学が自ら変わっていくのは難しそうです。
%がわからない大学生とあまり変わるところはないのかもしれません。
 
 
分数ができない大学生が話題になった10年(?)前ぐらいに、授業の合間に、本学の学生に対して次の問題をクイズとして出しました(現在も授業の中で紹介しています)。

次図がそれですが、説明文を読むと特に違和感はないはずです。
ごくまっとうな日本語で、論理も破綻しているように思えませんはず。
しかし、明らかに分数の答えとしては間違っています。
そのことを質問してきた小学生に説明しなさいということですが、みなさんどうでしょうか。


実は、この問題自体は数学の本質が絡むので意外に説明は難しいので、正解がでることは期待していませんが、「どうや、みんな」と勝ち誇った感じで話をする私に挑戦してくる学生がいるとそれが楽しみでクイズとして出している。
当初は、かなりの学生が食いつきてきました。
色々と説明を考えてきた学生もいました(授業の感想にこのことを詳しく書いている学生がいました)。
何日も考えたけれどわからない、どうしても気になるから教えて欲しいという学生も多くいました。

しかし、今はほぼ食いついてきません。
気になるから教えて欲しいという学生が皆無になりました。
 
無駄なことはしない。
合理的であろうとしているということでしょうか。
冗長システムの話をするときに合理的というのは破綻しやすいということを話しているのですが、どうも伝わっていないようです。^^

時代の変化を感じさせられます。



2019年10月26日土曜日

今日は崇城大学へ

今日は昼前から崇城大学に出かけました。
立派できれいなキャンパスです。
土曜日でしたが、お昼には食堂にたくさんの学生たちがいて、屋外でも学生たちがいて、活気を感じました。


今日の用件は「初年次教育実践交流会in九州」への参加。
参加者は少ないんだろうなと思っていたら、定刻になると100人ぐらい入りそうな教室がかなり埋まっていて、関心の高さを感じました。
熊本県内の大学で共通教育改革に取り組んでいる人たちからの事例報告が中心で、それらを聞いていると取り組みに差はあれど、どこも懸命に取り組んでいることが伝わってきました。
残念ながら県立大の報告はなし。県内の多くの大学が報告している中で残念な限りです。


ところで、現在、国は学生調査を大規模に行い、その上での大学教育の可視化を計画しているそうです。
https://resemom.jp/article/2019/06/14/51034.html
調査の目的は、
大学教育に対する国民の満足度が低く、社会に対する発信も不十分との考えから、・・

という背景からのようですが、なんともはや・・・です。
こうした取り組みの積み重ねとして、大学は、前の大学とは似て非なるものに変わっていくことでしょう。

当初、移動できる電話だった携帯電話に電子メール機能がついて、スケジュール帳がついて、さらに機能が追加されていって、徐々に電話機能がメインでなくなっていくと、ある時、「携帯電話」は「ケータイ」へと変化しました。
さらに今はそれが「スマホ」へと変化しています。
(私はこの不可逆的言語変化に強い興味を持っていて、いつかこの方面での論文を書いてみたいと希望(だけは)持ってます)
色々な機能が追加されていくことで、不可逆的変化が起きると、最終的に当初とはまるで違うものになります。
少しづつの変化が積み重ねが、いつの間にか大きなパラダイム転換を引き起こします。
 
Artractが今回の白亜祭でも実演する「アハ体験」のようなものです。

アハ体験の際、現在の変化に気づきません。変化が累積し、過去とは随分と様子が変わっていることにも気づかずにいるのは怖いことです。
気づいたら変わってしまっている未来に対応できない可能性もあるわけですから。
 
そんなことを他大学の事例を聴講しながら感じてしまいました。

変化に対抗するには、自分が変化していことしかありません。
ダーウィンが進化論において主張した(発見した?)ことです。



2019年10月20日日曜日

日本の現在の立ち位置を巡る話題

元伊藤忠商事会長の丹羽さんの本を読んでいましたら、今の自分たちを理解する意味で、世界の中での日本に順位データが記載されていました。例えば、以下のようなデータです。
・人口→10位
・国土面積→61位
・一人当たりの名目GDP→20位(2000年は世界2位)
・食料自給率→39%(先進国で最低)
・エネルギー自給率→8%
・国の借金のGDP比→212%(世界最悪レベル)
・国際競争力→9位(2017年)

1980年代頃の日本の隆盛を知っている人たちからすると驚愕するような数値が並んでいます。
競争力については、別のデータのようですが、
・国際競争力→30位(2019年)
という結果もあって、これは次の記事で
紹介されていました。この記事によれば、日本の競争力のランキング推移は次のようになっています。

20世紀の終わり頃に急落していて、そこから上がり下がりを伴いながら、順次低下しているように見えます。
日本が下がったのか、それでも他の国が上がってきているのか不明ですが、こうした変化には何らかの原因があるんでしょう。

そのひとつの要因として教育が挙げてあり、どうも普通の人の教育を失敗しているのではないかというのです。
天才的な人材が必要なことは当然でしょう。知識基盤社会であれば当然ながらそうでしょう。
しかし、だからといって、日本人のボリュームゾーンを形成する層に対する教育が劣化してしまうと悲惨な状況を招く可能性もあります。

記事によれば、今、東京では大人塾というのがあり、そこで次のような問題に挑戦している人たちがいるのだとか。

小学生の問題です。
夜間中学での問題かと思ったら、そうではなく、通常の社会人が通っているらしい塾での問題だそうです。
実際に仕事をされている方々であるようです。
また、驚くべきことに、大手銀行で、新入社員200人に消費税の計算をさせたところ半分ぐらいができなかったとか。
銀行幹部からしたら笑えない状況かと思います。
昨年まで、データ分析という授業を担当していて、その冒頭、絶対参照の復習の意味で、Excelで消費税込みの価格を計算させたことがありますが、参照以前に、確かに消費税計算が怪しい学生がいたように思います。

そうした現実に前にすると、今のままではまずいのではないかと思うのですが、どうにも、意識改革はかなり難しいものです。
今でも、過去を生きる状態にあることを感じることがあります。

上記記事の最後は、
「普通の人材になるための基本スキル」を国民に身に付けさせるはずの日本型教育の劣化があるのはおそらく間違いない。「社会に出てから引き算を習う大人たち」は、その兆候の1つでしかない。

とありました。
日本型教育の劣化!とあります。
今何が起きているのか、きちんと調査して分析をして立ち位置を理解し、その上で次のステップを考えるべきでしょうが、なぜか感覚的に考えることが多い気がします。
ユニバーサル化した大学は、日本のボリュームゾーンを受け入れている機関でもあります。
昔、隆盛を誇っていた日本を知っていて、それを享受してきた人たち(私など)の意識は変わっていきべきでしょうけど。




2019年8月31日土曜日

オープンサイエンスという思想と今後の市民

少し(随分?)前(2019/8/4)の熊日新聞に掲載された「オープンサイエンス(社会に開かれた科学)」についての論壇がずっと気になっていました。



サイエンスは、近代以降、徐々に専門家だけの世界に閉じたものになっていき、専門家は仲間向けのジャーナルで情報を共有するようになり、市民との乖離が進行していきました。
専門家は自分たちだけでしか通用しない方言(ジャーゴン)でもって科学を語り、そのジャーゴンが専門家集団と市民の間に境界を作り出しいくことになったのでした。
わが国では、科学史家・村上陽一郎氏が中心となって科学者の行動パターンを歴史的経緯の中で詳しく論じてこられました。
村上氏の著作をほぼ全て読みました。いつの頃からか専門家というものに少し疑問を持ち始めていたこともあり、そうした著作によってさらに考えは色々と発散したり、深まったりしつつ、いつの間にか自分自身が専門家であることから離れていく方向の遠心力が強まっていきました。
その結果が現在で、何が専門なのか自分でもよくわからず・・・、そんな状態に至っております。
・・・といった個人的経緯もあって、このコラムの内容が気になったのです。

矢守氏は、サイエンスを専門家だけのものにせず、多くの市民が関わるような形にデザインしていこうという動きが起きていることを紹介されています。
防災・減災の分野では大きな役割を果たしつつあるようです。
特に、災害に対して市民がそれを自分事として捉えていくのに大切なやり方だなと思いました。
今週は、佐賀を中心に豪雨による大きな被害が出ていますが、こうした状況を踏まえると、オープンサイエンス的な動きが必要なのだろうと強く思います。

現在のこうした動きの走りとして捉えてよい話題が、今から10年以上も前、2006年にNHKの当時の番組「クローズアップ現代」で
  海を渡る蝶”アサギマダラ”
  http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/2282/index.html
という番組が放送されたことがあります。
2千キロも移動するこの蝶の生態を解明したのは、実は、全国に点在する蝶の愛好家たちで、愛好家たちがネットで情報を共有しながら、この大移動する蝶の生態を明らかにしたのでした。
市井の人々による科学的事実の発見でした。
この番組をリアルタイムでみていて、専門家の閉じた世界にはない科学の面白さを知った記憶があります。

こうした動きは市民と行政の間にもあり、それは前期の授業「地域と情報」の中でOB(M08)佐藤によるオープンデータの解説を聞いてから、特にそう思いました。
市民は科学と乖離するだけでなく、行政との乖離も進行してきたわけですが、サイエンスの動きと同じように、(佐藤によれば)行政との対峙の仕方も徐々に変わってきているようです。
オープンデータを使って市民が行政がやっていたことを担い、市民によって地域のガバナンスが可能になっていく、佐藤の話にはそうした未来が描かれていました。
「オープン〇〇」という近年の潮流は、それまで権威の背後におかれ受動的であった市民が主体的にかかわっていくようになってきたことを教えてくれます。
今後の社会の新しい姿なのかもしれません。

大学が次の時代の市民を輩出することが役割であるとすれば、学生が大学で今後学んでいくべきこととは、こうした動きの中にヒントがあるのかもしれません。



2019年7月29日月曜日

OB(09)志柿の来室/前期最後の授業

今日の最後の授業が終わった頃、アポを取っていたOB(09)志柿がやってきました。
差入れと招待状を持参して。
コーラは私への差入れです(この頃のゼミ生は私の好きなものをよく知ってます笑)。
9月14日の披露宴の招待状をもらいました。
09ゼミ生が結構集合するようです。^^


今日は前期の最後の授業日(明日から定期試験)でした。
月曜日はいつも多忙なわけですが、その慌ただしさともしばしのお別れかと思うと、感無量でした。
特に、急に担当することが決まり、突貫工事を連続だった「地域と情報」がその前期最後の授業日のトリ=6限目だったので、講義を終えて、全てが終わった時には感無量でした。授業の中核を設計してくれたIR室のOB(M08)佐藤もきっとそうだったろうと思います。


紆余曲折しながらの半期の授業を、私なりに振り返り、これで伝えたかったことを私なりに考え、ひとつのストーリーをこしらえ、その結論として次のようにまとめてみました。


そして、もうひとつ。


佐藤もこうしたことを考えていたはずだと思いつつ、まとめたものです。
なお、このまとめを考えながら、今回の地域と情報は新しい時代のリテラシー教育のひとつであったと確信をしました。
25年前(1994年)、県立大学が出来たころ、新しい時代の情報教育とはどうあるべきかを当時の教員たちで一緒に日々議論していました。
情報教育=プログラミング教育であった従来のパラダイムを壊すに至る議論をしていたことを思いだました。
そうした議論の末に、現在の情報教育につながる原型となるスタイルを作り上げたのですが、今回の授業を経験して、これまで流れの中にある情報教育のそれはそれとして、それ以上に新しい時代の情報リテラシー教育が必要になっていることを実感した次第です。
新たな時代には、新たな教育が必要だよな、と。

ついでながら、そう確信したのは、今年の7月にあった鹿児島豪雨でした。
この時の私的体験が上のことを確信させたように思います。

この時のことをガリラボ通信に綴っています(ガリラボ通信2019/7/4)。
ただ、こうした私的体験も学生たちの多くにはなかなか通じていないのではないかと感じました。
OB(M08)佐藤の話とか面白いのですが、あれから25年、私の方はこんなにも長く教員生活を続けているのに関わらずなかなか人を引き付ける話を会得できず、困ったものです。
ただまあ後少しなので、我慢してもらいたいと思っています。^^;
 



2019年7月21日日曜日

特技を3つぐらい持つと。

「1/100をつくろう(100分の1理論)」・・・なんでもなかった人が、何かしら特別な人に変わっていくための、具体的な(KPIのような)目標を示してくれるひとつの理論です。

簡単に言えば、人に自慢できる特技を3つぐらい持ちましょう、という目標です。
 
100人に1人というと極端にすごいレベルではありません。
しかし、特定の領域で100人に1人しか持ってない何か(スキルとか)が、例えば3つぐらいの領域に該当したとすると、その人は、
  1/100 x 1/100 x 1/100 = 100万人に1人
という極めて貴重な人=特別な人になります。
100万人にひとりというのは、熊本県内に1、2名しかいないということです。
貴重な人材です。
 
ただ、その100人というのは、どういった人たちを想定すればよいのか、そこが大切になります。どういった人たちの中での1人なのかは大切です。
そのあたりについては、こちらのブログを参照ください。
なるほどと勉強になります。こには、次の激励の言葉も添えてあります。

「漠然とではなく、イメージとして具体的に考えるとわりと努力の方向が見えますよ」ということ。そして「そんなに継続して努力する人って多くないので、1/100くらいなら意外と数年でなんとかなる」ということです。

とにかく、継続できさえすれば(それが一番難しいでしょうけど)、100万人に1人も何とかなりそうです。
 

まった別の話題です。

金沢工業大学をご存知でしょうか。
大学関係者であれば誰もが知っている大学です。
今は、学生満足度全国NO.1の大学ですが、そのことでも有名ですが、それ以上に大学関係者が注目したのが、元々はこの大学はFランク=誰でも入れるような大学であったということです。それが、色々な改革やって大変身していきます。
鳥人間コンテストに出場する常連校ですし、ロボットコンテストでも活躍していて、注目されました。
今日、Facebookに流れてきて知ったのですが、現在、この大学は、国連が唱えるSDGsの達成のためにSociety 5.0を捉え、Society 5.0を担うエンジニア育成を教育目標を掲げているようです(記事)。
大学が、タイムリーな改革で良いのかとの批判はあるのかもしれませんが、赤の女王仮説によればそれは正しい方法です。



金沢工業大学は、全国の大学で1/100理論を実践した大学なのかもしれません。
非常に特徴を出しています。
そのアイデアと行動力は見事なものだと昔から思っています。
実は、本学が法人化した頃、本学にキャリア教育を導入するために学内で教員と職員の合同チームを作り、その場で夜な夜なかなり突っ込んだ勉強会をしていたのですが、その頃に金沢工業大学の凄さを知り、それからずっと注目していました。
その後も継続的に優れた改革が行われ、進化を続ける大学だと感じています。
学内の教員、学生は大変でしょうけど、視点を変えれば、充実した時間を過ごしているのかもな思います。

改革にスピード感は重要です。エジソンが
  真の成功基準は、24時間に詰め込める実験の数だ。
と言っているとのこと(ガリラボ通信2014/8/22)。
チンタラ作業していてもダメなんですよね。
やって、それを評価される形にして、善し悪しを判断しダメだたら方向を修正し、良かったさらにその方向に突き進み性能をよくしていく。
この一種のPDCAですが、このサイクルを超高速で回転させることが大事なようです。
金沢工業大学のそのサイクルはきっと他のどの大学よりも速かったのでしょう。

なおこのことは個人でも同じことであろうと思います。
個人でもPDCAサイクルを超高速に回転することを実践していくべきです。

そうしたスピード感を持って生きていると、人生のあるときに特技を3つあるいは4つも持っている可能性もありますね。


 

2019年5月21日火曜日

ゼミ紹介リハ/疲労困憊のたまがーるとの会議/自立心を高めよう

午前中は16ゼミで、久方ぶり(初めて?)にゼミ長不在。
それ以外にも採用面接等で、今日は合計4名が不在の中、副ゼミ長4年(16)笠原が進行してゼミを行いました。

今日のゼミはゼミ紹介のリハーサル。

卒論チーム別に役割分担して2年生向けの来週火曜日にゼミ紹介を行います。
どのチームも内容は完成していましたが、どうにもチームとしてのプレゼンはちぐはぐで、そのために(終わった後の反省でも出ていましたが)全体に暗い印象を受けました。
せっかくプレゼンする機会なので、明るくしっかりプレゼンをしないともったないと思います。
リハを聞きながら、昨年のゼミでOG(15)八並が「どうせやるんだったら、ちゃんとやろうよ」と強くみんなたに訴えていたことを思い出しました。
そこから、逆転のドラマが始まり、全体としていいプレゼンができたように思います。
明るく、しっかりしたゼミ紹介を期待しています。
そのためにはチームごとにしっかりと練習をすること。
練習でしか良い形にはなっていきませんので。
各チームリーダーは、その辺り、よく考えること。
  

午後は3限目にチームたまがーるとの打合せ。
4年(16)松寺に、採用面接から急ぎ帰ってきた4年(16)荒木と小島とで5月30日の花しょうぶ祭りでの撮影についての打合せでした。
90分間ほど話し合いをしたわけですが、もう議論はあちこちに飛びまくりで、いつも通り、むちゃくちゃでした。orz
それでもいくつかは決まったはずですが、小島による脱線のパワーが強すぎて、終わった後のひどい疲労感のせいで、何が決まったのか、もうほとんど記憶にありません。
早く議事録を送ってもらわねば...
ただ、ひとつだけ覚えていることがあります。私がやらないといけないことなので覚えているのですが、玉名女子高校の生徒とたまがーるとのコラボの件。
玉名女子高校の先生から相談を受け、高校生をガリラボの活動とコラボすることについて、今日の打合せで話題とし、コラボの方法についておおよその方向性を決めました。
小島がいるので、高校生に影響を与えすぎないか心配ですが(笑)、12月ぐらいまで一緒に活動をしていこうと思います。
早い段階でたまがーると玉名女子高校を訪問しなければ。

たまがーるとの打ち合わせで体力を消耗した後、次は地域伝承チーム(まだチーム名はありません)の4年(16)田村、笠原と卒論の方向性について打ち合わせを行いました。
直前の会議と打って変わって、こっちは随分と知的な会話となりました。
(もっとも、その印象は、前の会議に強く影響されているとは思いますけど^^)。
ゼロから出発で1時間ほど打ち合わせた結果、大学をフィールドに「伝承」をテーマにしていくことにしました。
内容はこれからですが、おおよその方向性は決まったので、それを踏まえてチーム名も決めてくるはずです。


その後、夕方になって3年(17)生の確か、阿部、河野、園田がゼミ紹介映像の編集作業をやっているようでした。
17ゼミ生は今週金曜日が発表会となります。
4年生も多くが参加してほしい。
 


<おまけ>
朝、ダイヤモンドオンラインの次の記事
 GAFAに転職したい!外資系で求められる人材や英語力とは(2019/5/8)
を目にして、そこにあった外資系で活躍できる人の条件のひとつに「自立心が高い」ことが挙げられており、それは次のようなタイプを言うのだそうです。
・わからないことをすぐ誰かに聞くのではなく、まず自分で調べる
・社内プロジェクトなど、やりたい仕事があることを、上司に上手に伝えられる
・キャリア形成の責任は自分にあると認識し、社内外の研修で自分の成長を助けるものに、積極的に手を挙げる

2番目はちょっとわかりにくいですが、おおよそどのタイプもなるほどそうだろうなと思う内容です。
ただ、これを読みながら、これらのタイプは、外資系でなくても、今後の日本企業でも重要だろうと思いました。
日本企業も、終身雇用というコトバ自体から距離を置くようになり、従来の日本企業的なもの自由になってきているわけで、そうなると必然的に今後は「自立心の高い」ことはどういった企業でも(そしてもちろん公務員も)必要になるでしょうから。
腹を据えて勉強していかないといけません。
「大学はレジャーランド」というコトバがありましたが、もうそれは死語になりました。
この言葉が流行った当時からすると大学の姿は随分と変容しています。
そして今後もさらなる変容が要求されているように思います。



2019年5月18日土曜日

Society5.0を読み終えて

情報社会の次の社会「Society5.0」に向かうための課題を解決するのに、日立と東大とが組織間で連携して取り組んできた「ハビタットイノベーション」プロジェクトをまとめた書籍「Soceity5.0」を先日ようやく読了しました。
現在の多様な情報が飛び交う情報社会から、センシング技術などで(いわゆるIoTにて)現実空間を可視化するデータを中心にした社会「データ駆動型社会」あるいは「データ社会」への移行が模索されている様子が描かれていました。

これまでの社会は、(1.0)狩猟社会から始まってその時々の基幹技術によって次の変化を遂げていきました。
(2.0)農耕技術という基幹技術の発明
狩猟民は土地に定着し家畜を飼い、穀物を生産するようになった(農耕社会)。集落単位で共同体が形成され、土地に根差した経済社会システムが形成され、同時に人々の間に支配・従属関係としての階級制が導入された。
(3.0)蒸気機関を中心とする基幹技術の発明
工業化が進行し、人々は故郷の村を離れ、都市に大規模な労働力が提供されていく(工業社会)。階級制は徐々に薄れていった。
(4.0)コンピュータや通信技術という基幹技術の発明
メスメディアが広く普及し、地域間での情報格差が縮まり、ヒト・モノ・カネの流動性が高まる(情報社会)。

そして、情報社会から徐々に、明確な意図の下に、次の社会への移行が始まっています。
(5.0)IoTなどのデータ化とそれを活用する基幹技術
社会全体をリアルタイムに計測・分析し、最適化制御できる技術の発達により、サイバー空間とフィジカル空間が高度に融合するCPS(Cyber Physical System)が可能になる(データ駆動型社会=Society5.0

ひとつの安定的な社会が形成されたとき、そこで生活する市民とは、その社会に応じたリテラシーが要求されていくはずです。
日立東大ラボで議論されているSoceity5.0に向けたハビタットイノベーションでは、市民の高度な情報リテラシーに期待した改革がイメージされているようです。
さて、ハビタットイノベーションですが、まずこれは社会課題を
  構造転換技術イノベーションQoL
に因数分解して考えます。
詳細は省きますが、構造転換や技術イノベーションは、これまで政府・行政・企業が主導してやってきたものです。しかし、ハビタットイノベーションでの考え方においては、データ駆動型社会では、
  住民がデータを活用して住民基点のイノベーションを起こすこと
が重要だと主張されます。そして、
  住民が主体的にデータを活用するで、社会課題解決と経済成長を両立させ、
  持続的に都市を刷新していく状態をつくること
がハビタットイノベーションを通じたSociety5.0の実現であるとのことでした。

住民(市民)によるイノベーションが進むには多様なデータがオープンデータとして提供されていることが前提となります。
現時点で、総務省が音頭を取り自治体のオープンデータ化の取組みが進められていますが(地方公共団体のオープンデータの推進)、それは今後のSociety5.0を目指した動きのひとつなんだということを理解しました。

ところで、社会の変革といっても、それに対応する市民が存在しなければ、そうした社会の実現は不可能です。
現在のような書き文字を前提とした社会を作るには、全ての市民が文字が読めるリテラシーを身につけてなければ不可能です。
文字を使った社会は効率が良いので、その方向に向かうため、学校の教育にそうしたリテラシー修得の役割が組み込まれました。
情報社会は、コンピュータ(今だとスマホが重要ですが)の利活用を市民ができるようになって初めて可能になるので、コンピュータの利活用が教育として実施されてきました。
大学教育の中で、「一般」情報処理教育が始まったのは1990年頃からです。
それから約30年が経ち、世の中は、データを基礎にする社会へと動き出しました。
今後のデータ駆動型社会では、データや情報を読み解く、高度な情報リテラシーを持つ住民(市民)の育成が要求されるようになっていくはずで、そうした育成は、教育機関に役割が期待されてくるでしょう(これまでの歴史を振り返れば)。
なので、先進的な大学ではデータサイエンスを一般教育として提供し始めているところも出てきているようです。
ただもちろん、それだけに偏るとまた拙いわけで、それに警鐘を今から鳴らしている方々もおられます。

「データを解せば世の中が変わる」は危険

ということで、上の参考資料にあるセンスメイキングも含め、理系の知と人文系の知、双方の知ともにしっかりと学んでいきたいものです。

ところで、今さらですが、先日、挑戦した「チャレンジ!オープンガバナンス2018」コンテストとは、自治体のオープンデータを活用した市民のイノベーションに期待するコンテストであったようです(当日の様子:ガリラボ通信2019/3/11)。
今頃!?と言われそうですが、Society5.0について少し理解してようやくきちんとコンテストの意味が理解できました。
そしてまたどうして東大の公共政策大学院が主催しているかも理解できました。
オープンデータを用いた市民による社会課題解決というハビタットイノベーションの考え方の中でのイベントであったのだと思います(推測ですけど)。
ただ、私たちがやったこともそうですが、他の取組みもこの理念を充実したレベルで実践していた取り組みは(今思えば)少なかったように感じます。
改めて、新しい社会に向けた市民育成が今後の教育機関の課題であろうと思います。
 

ところで(・・とまた話題は飛びますが)、現在、「地域と情報」という授業を急遽担当することになり、ただいま泣きたい思いで準備などしています。笑
大変ですが、担当することになって勉強せざる得なくなり、おかげで知識も増え、その結果、この科目は、ここまでで述べてきたが人材育成のための授業だと確信するようになりました。
当初は、地域情報化という、現在の情報社会での視点でカリキュラムとして配置した科目でしたが、どうもそういうことではなく、これからのSociety5.0に向けた人材育成にむけた(意図せざる結果でしたが)先進的な授業と捉えた方が良いことに気づきました(特別講義をしてくれている佐藤にとっては当然のことだったのでしょうけど。周囲がそうした頭がまるでなく、情報社会の頭でみているため、内容をかなり誤解している可能性があります)。
また、ローカル科目としての「地域と情報」のペア科目としてグローバル科目に「インターネット論」というのを配置しましたが(こちらは今年は休講)、これもSociety5.0の視点での人材育成に向けた授業として捉えた方が良そうです。
ネットを活用してグローバル事業を展開するGAFAのような企業についての話も重要なのかもしれませんが、本学のように地域を強く志向する学部の場合、ICTを用いた街づくりが世界中でどのように行われているのかを学んだ方が良いのかもしれません。
Society5.0の前身としてスマートシティの取組みが国の内外でグローバルな動きとして進行していています。それらの取組みはオープンデータを活用した市民主導の部分も多くあるようです。
インターネットをフル活用した街づくり(や都市づくり?)の話などは、熊本県にとっても無視できない話でしょうから、そうした視点を持つ人材を社会に送り出していった方がGAFAだけよりは良さそうです。
Socieyt5.0実現に向けたハビタットイノベーションという視点で、ミクロ情報社会学IとIIとしての「地域と情報」と「インターネット論」を構想するのも良いのかもしれません。
オープンガバナンスに挑戦する総合演習とかを組み込んでもいいかもしれません。

今日は読書感想文のようになってしまいました。
非常に固い話で、ゼミ生はここまでたどり着いてないかもしれませんが、たまに良いでしょう。^^;


Soceity5.0の次はセンスメイキングについて読もうと思いましたが、ドイツがアイデアの出発点になっているらしいIndustry4.0について次に勉強しようと思います。
ゼミ生も読書は怠らないように。
卒業生の場合は<新たな>勉強をする機会がなくなっているはずなのでさらに必要です。