2019年2月6日水曜日

プロ(レベル)をめざそうよ。

今日の気温は何度あったのでしょう?
お昼外を歩いていたら、服装の影響もありますが、汗だくになってしまいました。
宮崎にいる私の友人が、Facebookで、車の外気温が「19℃」になっている写真をアップしていました。
熊本も似たようなものだったかもしれません。
暑かった。

ただ現在は2月。1年のうちでもっとも寒い時期のはず。
昨年の今頃の様子をガリラボ通信で確認してみました。
雪の朝、後期定期試験始まるガリラボ通信2018/2/5
昨年の今頃はかなりの雪。
数年に1度というレベルの強い寒気が流れ込んでいたようです。
昨年が、通常の2月かと思います。


ガリラボについては、今日午後不在にしていたので状況がよくわかりませんが・・・

今日は16ゼミ生のまとめ冊子「イチロクノキロク」が校正を終え、3年(16)荒木が業者さんに印刷のGOサインを送りました。
2回目届いたサンプルを見ましたが、業者さんはやっぱり緻密ですねぇ。
16ゼミ生の手抜きの部分を鋭くチェックし、「ご指示くだされば、修正します」との何とも控えめなコメントが付してありました。
こんなところは、アマチュアの学生とプロの仕事をやっている人たちとの差ですね。
仕事って、こうした小さなところをきちんと仕上げてなんぼ。
大雑把だったら学生でもやれます。
が、入念に全てをチェックして仕上げていくのはプロでないと難しい。
モノを仕上げるというのは、そういった作業が必要なので、片手間でやるのは難しいものです。

ガリラボでは、映像づくりも含めてモノづくりをすることが多いわけですが、そうした最後の部分、詰めの部分をしっかりと仕上げるトレーニングをしてくれるといいなといつも思ってます。
「家族になろうよ」というのがありますが、「プロ(レベル)になろうよ」あるい「プロ(レベル)をめざそうよ」というのを合言葉にしていくと良さそうです。
「学生です」という甘さは捨てて。
そんな意識で、与えられた作業を続けていると、卒業するころには非常に優秀な人材になっているはずです。

何でもそうですが、しっかりしたものを作り上げるのは、並みの努力ではできません。



余談ですが・・・

先日、「作ること」とそれを「評価(批評)する」ことは随分と労力に差があることを書きました。
そうした事実があるにも関わらず、評価とか批判とかする側になると、作る側の労力を理解せずに(あるいは想像する力がないことに気づかないままに)評価してしまうことがあるものです。
学生たちの授業評価などもそうでしょうか。
教員が、場合によっては、その学生が生きてきただけの時間をかけて真剣に学んできた知識を基盤にして、そしてさらにかなりの労力を捧げて「作った」15回もの授業を、わずか1,2分で(たぶん感覚的に)「評価」するわけですから。
もっとも15回もの授業を受けてきた実績の上なのでそれでもいいかもしれませんけど。
授業を受けて「自分がどうだったか」というのを教員に知らせるのは大事なことです(それを「評価」と呼ぶのかどうかは別にして)。
ただ、「評価」というからには、もっと別のやり方もあるのかもしれません。
授業という製作物の中に詰まっている内容を、さらによく理解してもらうようなやり方が評価の方法としてあれば、それを取り入れられるともっと良いのでしょうけど。

昔(20年ぐらい前?だったような気もします)、県立大のある場に参加していたとき(どういった場であったかは忘れました)、ひとりの女性の先生が、その場の発表者の方に対して
  作られた努力に敬意を表します。
  批判は簡単ですから、作られた努力に対し大変失礼な言い方に
  なるかもしれませんが・・・
と切り出され、質問とコメントをされていました。
(この方のこの3行程度の言葉を書き留めておきたくて余談を書いています)
正確にはもう少し違った表現だったと思いますが、趣旨はだいたいこんな感じでした。
今よりも若かったころの私は、この先生の発言、特に真摯な発言を聞いて衝撃を受けました。
生の声でなく、文字だと真摯さが伝わらないと思いますが。
この時のこの先生の声は、何十年も前も前ですが、今も耳の奥底にしっかりと残っています。
異なる学部の先生でした。

若いと、評価とかすると、相手方の上に立った気分になったと無意識に錯覚してしまい、上から目線で評価・批判をすることもあったので、非常に反省をさせられました。
相手がどれほど努力して作り出したものか、その辺りを理解する能力もない状態で評価・批判するわけですから、破廉恥としか言いようがありません。
その時、深く反省をした記憶があります。
(ただ、残念なことに、年齢を重ねていくと、それを徐々に忘れていく自分がいて、困ったものですけど)

評価するのというのは、かなりの努力を要します。
余談ついでですが、私は昨年まで、大学基準協会で大学評価というのを主査として担当していました。
国内のあちこちの大学の評価をやっていたのですが、評価のために読むべき資料は膨大なものでした。
こうした評価は、担当する大学に点数をつけることが目的ではありません。
膨大な資料を、その大学が出してきた証拠と突き合わせながら読み解き、評価を通してその大学が伸びていくべきところを見つけ出すことが重要な仕事でした。
適当に資料を読むなどあり得ません。
最後は、相手方の大学の幹部が全員揃ったところで(大学によっては向き合う相手は何十名になります)、そうした方々を相手に、こっちはわずか数名で評価結果を伝えるのです。
腹を据えないとできない、真剣勝負そのものでした。
評価した講評を、直接、自分の言葉で伝える訳で緊張の程度は(私がそれまで経験したことがないほど)ハンパないものでした。
なので、評価が終わった後はいつもですが、疲れ果て、寝込んでたように思います。



本来の評価とは、かなりの労力が必要です。しかし、そうした労力をした評価は、評価する側もかなりの勉強をしており、随分と成長しているのではないかと思います。

こうした評価をする時、私の意識のどこかに、あの時の女性の先生の声が響いていたように思います。


何だか、話が随分と脱線してしまいました。
明日も午前中は所用でガリラボを不在にします。



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