令和5年(2024年)3月29日、ガリラボを閉店しました。
41年の教員生活に区切りをつけることができました。
ガリラボに終わりが近づくと、最近はたくさんの卒業生がガリラボを訪問してくれました。
昨日の最後の日も、駆け込みで卒業生が色々やってきました。
OB(M16)大野(現在、小学校の校長先生)。すれ違いが多くてなかなか会えなかったのですが、昨日、ようやく会えました。
OG(07)小田原及び興梠。数日前に、「先生、29日に会えますか?」との連絡があり、最後の日なので色々と大学内の儀式があったので、2人と時間調整をして辛うじて会えました。
OG(03)菅原。
ガリラボが閉店するのを見届けたいと仕事(現在、教員です)を休み駆けつけてくれました。
菅原は、実はガリラボの卒業生を代表するミッションもあって来ておりました。
卒業生一同からの卒業アルバム、そしてお礼の品を届けるためです。
(卒業生のみなへ。どうもありがとう)
卒業アルバムの中身は、これまでの卒業生からのたくさんのメッセージで溢れていました。
最後のページあたりでは、私がガリラボを卒業する写真が飾ってありました。
アルバム内の一人ひとりのメッセージをじっくりと読み、感動しました。ゼミ生としてガリラボを選んでくれた卒業生みんなにただただ感謝しています。
つくづく教員とはよい職業だと思いました。
41年間の教員をやってきて、並行して研究者としての仕事、そして大学運営の仕事もやってきましたが、一番はやはり教員としてゼミ生と接してきたことが私にとってはもっとも幸せなことだったと退職の日に改めて強く思いました。ガリラボを巣立った253名のゼミ生は私にとって家族と同じぐらいに大事な宝物です。
17時頃、ガリラボを出ました。
最後となる施錠して、ガリラボの鍵は大学に返却しました。
最後を見届けてくれた3人と施錠した研究室前で記念撮影。
別れ際、研究室下の桜(私が勝手にツマガリザクラと呼んでいた桜です)を背景に写真を撮り、私は大学を後にしました。
3階の角部屋。3月29日でもって、この場所から、「津曲」であるとか、「ガリラボ」という語はなくなりました。
明日からは、次にこの場所を利用する先生が、新しい研究室を立ち上げ、ここは第2のガリラボとなっていってくれるでしょう。
いや、第2のガリラボはもう生まれているのでした。
OB(M08)佐藤の研究室。
OB(M08)佐藤の研究室。
九州産業大学の佐藤研究室は、ガリラボをさらに発展させる研究室になっていくのに違いありません。
佐藤研究室では「さとらぼ通信」が始まっており、それを読むと(パスワード付きなので誰でもは閲覧できません)、活発な研究室であることがよくわかります。
ガリラボの卒業生には、佐藤研究室のように、職場であるいは家庭で、ガリラボの優れた遺伝子だけを選び、それを使ってそれぞれ良好な空間を生み出していってほしい。
8年前、ガリラボの追いコンの場で大学院を卒業するOG(10,M14)吉村が、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で紹介された言葉を使って話したことを思い出します(ガリラボ通信2016/3/19)。学校の校長先生の卒業式でのスピーチで、それは次のような内容です。
今から何十年後かに あなた方がこの学校生活を思い出して、あの時代が一番幸せだった 楽しかったと 心の底から感じるならば、わたしはこの学校の教育が 失敗だったと言わなければなりません。人生は進歩です若い時代は準備の時であり、最上のものは過去にあるのではなく将来にあります旅路の最後まで希望と理想を持ち続け 進んでいくものでありますように
ガリラボの卒業生は、ガリラボで培ったスキルや考え方でもって、今後も常に進歩していってほしいと願っています。
最後になりますが、これまでガリラボを支えてくれたすべての皆様にお礼を申し上げます。
ゼミ生はもちろんです。それ以外に、ガリラボは大学職員や地域の方々と関係が深ったので、こうした大学内外の方々には大変感謝しております。
多くの方の支援があってガリラボでの活動は長きにわたり継続していくことができました。
ありがとうございました。
撮影 OG(03)菅原
2024年3月29日
津曲隆
※ガリラボは閉店しましたが、このガリラボ通信は、今後もたまにでしょうが更新するかもしれません。