2026年1月27日火曜日

「ヤバい」「エモい」という表現を巡って

昨年末、今年の漢字(熊)に関するコラムを通信に書きました。言葉のことを再度考える機会があり、そのメモを残しておこうと思いました。パソコン内にファイルとして残すこともあり得るわけですが、それだと読み返そうと思ってもまず見ることはありません。その点、ブログは読み返すのに非常に便利なツールです。それで、このブログ(ガリラボ通信)を利用させてもらい、メモをここに置いておこうと思います。
それと、たまに更新すると、ゼミの卒業生に私の生存を知らせる効果もあるでしょうから。^^

----

1月で、A大学の今年度の講義は全て終了しました。A大学では「情報倫理」という科目等を担当しています。
この科目の担当を始めたのは12年も前のこと。10年以上前からこの領域が重視されるようになり、大学にこうした科目が新たに開講されることになったわけですが、開講した頃の社会状況は今からするとかなり牧歌的でした。そのため、受講している大学生も情報倫理は自分たちとは縁のないどこか遠い世界のことに感じていたようで、ぼんやり聞いている学生が多かったように記憶しています。
ところが、その頃からすると今の社会は情報の流通のあり方が激変しました。
この意味で、今の社会は情報倫理に関わる知識は、理論的知識というよりも社会を生きる上で実践的な知識になってきており、学生たちは自分たちの問題としてしっかり聴講する学生が増えています。

15回の講義で構成している科目ですが、その中で産業社会と情報産業(文化産業)の関係についての話をすることがあり、その中で関連する話題として言葉の問題ついて話をすることがあります。

今年度は、2021年度に広告賞を受賞した次の作品を紹介しました。
この広告は、広辞苑の広告ですが、人には多様な感情があるはずなのに、抽象度の高い万能語だけで表現することが増えていることに警鐘を鳴らしているようにも読み取れます。


今は、多くの感情をたったひとつの語「ヤバい」で表現することがヤバいほどに増えました。この「ヤバい」という言葉に違和感を私が感じたのは2010年頃でした。会話する中でゼミ生が「ヤバい」と言葉を使ったとき、何がヤバいのか明確に理解できなかったので、「それどういうこと?」と尋ねたのが、「ヤバい」が多くの感情を表現する言葉として若い世代に普及していることに気づいた最初でした。
もう15年以上も前のことです。それから「ヤバい」はネガティブな感情もポジティブな感情も表現する万能語としてどんどんと普及していきました。
「エモい」については、あまりゼミ生からは聞くことはなかったので、これがいつぐらいから普及してきたのかは私自身の経験ではよくわかりませんが、今の学生たちと接していると確かに「エモい」という言葉を使っている場面に遭遇するので、これも万能語として定着しているようです。

「ヤバい」「エモい」という高抽象語(万能語)の問題が、2025年4月16日放送のNHK番組「クローズアップ現代」で取り上げられました(番組HP)。

ここでの指摘は、万能語を多用すると犯罪に走るという因果関係を主張するものではもちろんありません。そうではなくて、犯罪に走った人たち、全部ではなくその一部の人について、自分の気持ちを明確に表現できない傾向があるということのようです。
新潮新書「ケーキの切れない非行少年たち(2019年刊)」で指摘された認知力の問題と似ています。非行に走った少年たちには、ケーキをうまく等分に切れないという人がいて、非行少年たちの一部には認知力の問題があることが指摘されたのでした。
これは、大人に向けての成長に問題を抱えている人たちの中には一定のリスクを抱えている人たちがいることを指摘するものでした。

言葉を覚え始めた赤ちゃんは、動物を見ると全部を「わんわん」という万能語で捉えます。しかし、成長に伴って「わんわん」は、「わんわん」と「にゃんにゃん」に分化し、犬と猫とを区別して認識できるようになっていきます。成長とは、世の中を多くの言葉を使って詳細に捉えていく過程でもあります。
「ヤバい」「エモい」という万能語を使いすぎることは、感情に関わる成長を止めている可能性があるかもしれません。そして、万能語による表現は、万能ゆえに表現を考える必要がなく、思考からも逃走している可能性もあります。世の中とは本来非常に豊かな世界です。そうした豊かな世界へのアクセスが遮断されてしまうのは非常にもったいないことではないかと思います。
※思考からの逃走については、ゼミの院生卒業生が主催してくれた退官記念祝賀会での最終講義で話した話題でした。⇒退官記念祝賀会@水前寺共済会館(ガリラボ通信2024/5/12
もう2年近く前にもなりますが、あの時に話したことがさらに進行していて問題としてさらに悪化しているように感じています。

思考からの逃走を始めないためには、ひとつは、本を読み、それまで知らなかった言葉に出会ってそこから知らなかった世界を想像してみようとか、あるいは他者と出会い、自分とは異なる意見にぶつかってみようとか、そういった方法等を紹介したりしています。
ただ考えてみると、このことは、若い世代に対してでなく、私のような高齢世代でも大事というか、高齢世代こそ重要ではないかとも思ったりするこの頃です。

------

講義終了後、講義の感想を任意で提出してもらったところ、言葉の問題ではなく講義内の情報社会に関して、ある学生の次の感想に驚かされました(文章は原文を参考に、私の方で作成したものです)。
自分の顔やスタイルの欠点を治さないといけないとSNSやメディアに思わされて、高額なお金で顔を切ったり縫ったり骨を削ったりして大学生活を過ごしてきたことを思い返し、悲しい気持ちになった。この4年間、もっと旅行や習い事をするべきだった。それにお金と時間をかけたら見た目なんか気にしなくて済んだのかもしれないと思った。これからは無駄な消費を減らして自己投資をしようと思えた。見た目の自己投資だけでなく、中身に対しての自己投資を頑張りたい。わたしは今日の講義の話は忘れたくないと思う。脳を鍛えるために、本を読んでイメージする練習をしてみようと思った。

ネットのフィルターバブルやエコーチェンバーといった効果によって加速され、こうしたことはこの学生だけに限ることなく、大人であっても陥ることはありえるでしょう。常にネットに接した生活をしている私などは当然その傾向の中にあるはずです(なので、そうしたことがあるんだということは常に自覚しております)。
そして、さらに最近は、SNS以上に生成AIがこの傾向に拍車をかけています。2026年1月20日に放送されたクローズアップ現代「友人や家族より 私の理解者AI!?」で、AIは過度に依存させる性質を持っていることが指摘されていました。それは、どういった発言をしてもAIは基本的にまずは肯定的に反応するよう作られているからです。そうしたAIとのやり取りは心地が良く、それが依存傾向を強めていくことになるようです。
周囲と話す機会が少ない人がAIを利用するのは悪いことではないと思います。しかし、AI利用は、周囲と話す機会があってもそれを失くしてしまっていることもあるわけで、過度なAI利用は避けるべきではないかと考えます(なにごとも「中庸」であることが大事か、と)。
この点に関して、別の学生からこんな感想ももらいました(これも同じく文章は原文を参考に私の方で作成したものです)。
今はAIに聞けば何でもわかってしまう社会になっていて自分で考えることが少なくなっています。実際、私もAIに聞いたりすることが多いです。そのため他の人と議論することも少なくなっていてコミュニケーションも少なくなりつつあります。

以前であれが、課題について友達と相談していたこともAIで間に合うため、友達同士のコミュニケーションが必要なくなっているようです。昼飯などを奢る代わりに友達のノートやレポートを拝借するといった昔よく見られた互恵行動(?)などは今はもう死滅しているのかもしれません。ネット検索が誕生してから助け合い行動が死滅する傾向にはあったわけですが、AIはその次元をひとつ上に上げてしまいました。上記学生の感想にあるように、AIは、大学において他者とのコミュニケーションを阻害する要因になっていることは間違いありません。

------

ゼミ生と直に接することがなくなって2年。
講義でしか若い世代と関わることがなくなり、学生の生活感を肌で感じる機会がなくなりました。そのせいで新たな社会状況についてかなり疎くなりました。
学生のことをどこかの大学が「未来からの留学生」と呼んでいました。的確な表現だと今になってさらに感じています。学生たちとの接触は未来につながり、そのために先は広がっていた感じでしたが、今は過去と現在の中に埋没し、広がりを失っている気がします。
文章を書く能力も劣化していることにも気づきました。このコラムもどうにも話をきちんと収束させることができません(涙)。私の場合は、AI騒動どころではありません。