2022年2月21日月曜日

自然から離れていく(?)ITがもたらす新語

今日はひとつ会議があったのみで、それ以外の時間はひとり黙々と論文執筆作業でした。
機械学習(いわゆるAIですね)のひとつであるトピックモデルというのを活用して、自由に記述されて文章を定量的に分析していく方法論の確立を目指しています。
ガリラボの活動とはまるで正反対のことをやっていますが、意外に真面目にやっていて、昨年はこの方法で、ある学会で小さな賞をもらいました。ゼミ生の活躍に比べると(謙遜でも何でもなく)大したものではありません。

それとは別に来月発行予定の学内の論文で「生徒」という表現については少し書きました。今、自分たちを「生徒」と呼ぶ大学生は普通です。この表現を大学生が使うのを初めて聞いたとき、強烈な違和感を覚えたことをよく記憶しています。
その後、徐々に「生徒」という表現の利用者は増えていき、今はどちらかというこの表現を使うのがメジャーなのではないかと思います。
世間でもそうで、大学生を「生徒」と表現すること場面をよく見かけるようになりました。

これが意味していることは、昔、大学が高等教育機関として少し特別だった頃から性質が変わり、今は特別なものでもなんでもなく、初等中等教育と一体もの、高校から大学の間に不連続線はなく、多くの人が無意識のうちに、連続的なものと捉えているのだということだろうと思います。


以下は、思いつくまま(自然に任せて)書いていくので、一貫性のない文章になっていると思います。

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社会の変化は言葉を変え、また同時に言葉の変化は社会を変えていく。
両者は互いに関係しあっています。
次の論考は先週末の熊日記事からのもの。興味深い内容です。

確かに、
 ガス欠、アクセルを踏む
という語彙は今の学生では使わない気がします。さらに
 汗をかく
などという昭和的な言葉は死語で、今はもう、ひょっとすると年配の議員さんぐらいしか使ってないのではないでしょうか。汗をかかくなった現代は極端に
 臭い(特に体臭)
に対して敏感になってしまいました。私が学生の頃は風呂にはまともにはいっておらず、洗濯はさらに稀にしかせずで、今だと絶対に大学に入れてもらえないのではないかと思います。
逆に
 チャージ、ガチャ
というなんだかスマートな響きの言葉はよく聞くようになりました。IT化は色々なものをスマートにしていってます。
工作機械による油まみれの実験室の中で体臭だらけの環境だった学生時代の私は、コンピュータ関係のスマートな人たちとは馬が合わないでいました(「馬が合わない」とかも死語でしょうか?)。その理由がわかりました。きっと使っている言葉が違っていたのではないかと思います(今もその余韻が残っています)。
 
IT化された世界は、本来の自然からはずいぶんと離れた世界です。
ずっとその世界だけにいると自然が牙をむいてくるようなときには無力でしょう。
停電しただけで、メタバースなど何の役にも立ちません。
そういうこともあるわけで、たまには自然と対峙して、自らの自然の身体を鍛えておく必要があるでしょう。
 
自然に対峙するのは色々なやり方があるでしょう。
ひとつは、赤ちゃんや幼児と接するのも良い方法です。
赤ちゃん・幼児は自然そのものです。
相手するのはとんでもなく大変です。 
孫2人と接している現在進行形の経験から大変さは心底理解しています。
家の中は無茶苦茶にしていきますし、車の中はお菓子の食べかすだらけにしていくし、まずかったら場所構わず口にしたものを吐き出すし、おもらしもするし、気に食わなかったら周囲に関係なくどこだろうが大声で泣きだすし・・・(涙)。
へとへとになります。老体に鞭うつとは孫を相手にしているときのことだとつくづつ思います。

テレワークなるITを使って身体の超越するスマートな方法も、幼児のいるところではまったく無力。
自然にITは勝てません。自然に対しては汗をかく身体でなければ通用しません。^^


自然に帰れ」とはフランスのルソーの言葉。300年ほど前、18世紀を生きた人が、こんな言葉を使っているわけですが、今、ルソーが生きていたら、なんという言葉を発するでしょう。聞いてみたい気がします。