2022年8月18日木曜日

静寂ガリラボ/新聞が衰退すると

夏休みとなってひっそりと静まり返るガリラボです。
今日は3年(20)松岡の面談。
面談と言うか色々と雑談しておりました。
1時間近く話していたので、たぶんひとつぐらいは役にたつ話をできたのではないかと思います。
その1時間を除くと、ガリラボは、私のキーボードの音と空調のファンの音だけしかしない静寂な空間となっておりました。

ガリラボについては以上で、以下、目についた今日の新聞記事を紹介します。

 多様な記事を配置し新聞、毎日、文字数だけでいくと1冊の本ぐらいの分量を家庭に届けてくれます。
それが今は衰退の一途を辿っているようです。

一昨年前亡くなった立花隆さんが、生前(それも随分前のことですが)、新聞の衰退は、国民の共通の知の基盤の喪失であって、それが進行すると国民の間でのコミュニケーションが成り立たなくなっていくと警告していました。グーテンベルク以降、人々が共通の文書を読めるようになったことが、国家の成立を促した面があるわけで、今は文書は色々と読めるものの、「共通」という部分が壊れていけば、グーテンベルク以降の時間の流れを逆にしている状況にあるかもしれません。

新聞、特に地方紙がなくなっていくと、今日の新聞にあるような事態に陥り、権力の側にいる人たちにとって非常に心地よい社会になっていきます。
こうした重要なことは特に若い世代に伝えるべきでしょうが、ただそのことを新聞で伝えても、若い世代には伝わりにくいわけで、それが今の難しい状況と言えるのかもしれません。

ほんと昔だと新聞を読んでないと恥ずかしいという風潮があったと思うのですが、今はたぶんそれはないはず。
若い世代で、知らないと恥ずかしいという状況があるとしたらどんな時なんでしょう。
そういう状況はないのかもしれません。
学生といると、今は、「え、なにそれ!?」と知らないとなると、恥ずかしいという感情が表出する以前に、すばやくスマホを取り出しすぐに調べ、瞬間的に「知っている状態!」になってしまいます。その間、その場にいた学生全員がいっせいに無言。恥ずかしい状態とか生まれようがないですね。
スマホは会話の際、「知らない」という状態を消去するための不可欠の道具としての役割を果たしているようです。