2022年9月12日月曜日

卒論テーマを彫る/畑を掘る

卒論面談2人目として4年(19)村上が午前中に相談にきました。
あまり明確ではありませんでしたが、話をしていくうちにぼんやりとしていた状態に形が現れ始め、1時間ほどで具体的な姿(卒論テーマ)を出現(言語化)させることができました。
出現させた卒論テーマは全く新しいものではありません。
元々、村上の中にあったものです。形にしてそれを外に出せなかった(言語化できなかった)もの・ことを、私との対話が手助けすることで言語化できたのです。
ということなので、何もない人(全く考えてない人)だと、私がいくら話をしても何もでてきません。錬金術は存在しないのです。

そんなとき、ふと思い出しました。
夏目漱石に「夢十夜」という短編小説があります(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html)。
その中に、運慶が木材から木像(仁王)を彫っていくシーンがあります。
主人公が、「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉は鼻ができるものだ」とつぶやくのですが、見物人が、「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中にっているのを、鑿(のみ)槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と答えるのです。
若い頃に読み、このシーンが何故か頭から離れず、ずっと記憶として残っています。
鑿(のみ)と槌(つち)とを使って目の前の丸太とやり取りしながら木像を彫ることと、村上が卒論テーマを考え出すこととはよく似てます。
内省をしていくことが彫ることに相当し、内省を繰り返すことで、心の中に元々あったものに形を与えていくわけです。手を休めず、彫る道具(鑿と槌)を動かしてあげること(内省を継続させること)、そうした支援が私の役割であろうと思います。
そのためには、某総理ではありませんが、「聞く力」は不可欠だと、この歳になってようやく理解できるようになりました。

・・・

村上との面談をしている頃、空中庭園には広報部がいたようです。畑の復活を計画しているのだとか。ここ数日、真夏ような日が続いています。日中は35℃ほどあったはず。
かなり暑かったはずです。
学生の時の懐かしい記憶のひとつとして残っていくことでしょう。
その時、楽なことをやっていても何も記憶には残りません。それが人間の記憶の重要な特徴です。