2021年6月3日木曜日

不可視の前提について

今日は、ゼミの募集に応募してきた2年生にZOOMで説明をしたぐらいで、それ以外はゼミ生とやりとりすることもなく、読書をしておりました。
オンラインが主になりオフラインが従になっていくと思われる今後の社会において、その代表なのかもしれませんと思い、もう8年も前に発売されたカーアカデミー創設者の著書を読んでいます。
今後の社会のことはさておき、現在の教育において当然すぎる教科、そして時間割というのが18世紀のドイツが出発点であったということでした。
驚くことに、そうした制度のねらいが「自分の頭で考えられる人間を育てることではなく、忠実で従順な市民を生み出すこと」にあったということは衝撃的でした。
授業時間という枠組みは、「絶え間ない中断により学習の自発性をそぐ」ために導入したというのですからほんと驚きです。

生徒たちに所定のカリキュラム以上のことを考えさせたり、異端の危険思想を話し合う時間を持たせたりしては断じてならない。チャイムが鳴ったら有無を言わさず会話や思考を中断させ、予定された次の回へと進ませる。秩序が好奇心にまさり、規律が個人の主体性に優先する・・ということだったようです。

教育の枠組みの根底が、創造性を削ぐための考え出されたものだとは、想像もできませんでした。
もっとも、多くの人に教育機会を提供することになり、多大なメリットもあったわけで、とんでもないやり方だったわけでもないとは思います。
この時代、高度な創造性や論理的思考よりも、工業で場で働く中産階級の育成に向け、規律・従順、基本的スキルが重視されていたから、こうしたやり方には一定の理由もあったとも言えるでしょうから。

ただ問題は、それが現在も盲目的に(?)維持されているということではないかと思います。
今現在も、この枠組みの上で教育が展開されているわけです。
衝撃的でした。

前提とは「図と地」でいえば「地」であり、地は視界から消えてしまうものです。
しかし、視界から消えているものを自覚できたとき、新しい世界が見えるようになるものです。
カーン・アカデミーとは、これまでの前提がなんだったのかを理解し、その上でのこれまでの慣習への挑戦だったようです。

無意識に自分たちが行っていることを「人々の方法(エスノメソドロジー)」と呼ぶことがあります。
無意識にやっていること、私たちはどういった前提の下で行動しているのか、それを知る方法として「違背(いはい)実験」というのがあります(ガリラボ通信2017/1/9)。
随分前に、OB(M16)大野たちと勉強したエスノメソドロジーのテキストの中で紹介されていた方法です。
自分(たち)が何に縛られているのか、たまに違背実験して、前提を可視化させることもやっていいかもしれませんね。

それにしても、現在の教科とか時間割という前提に込められていた意図には驚愕しました。