村上陽一郎氏を名前をみて即座に購入し、先日、読了しました。
村上さんは著名な科学史家で、科学がどう発展してきたのか、人間にとっての科学の意味、さらには看護の見方や安全の問題まで広く研究されてきた方で、この方の著作はほぼすべて読みました。科学と宗教の関係性、パラダイムという概念が持つ重要な意味、科学理論とはどういうものか等を学んだのも村上さんの論考からでした。現在の私の考え方は村上さんの著作にかなり影響されています。
村上さんの大ファンだったので読んでみたのですが、期待外れでした。寄せ集めだったからですかね。あるいは書店が村上さんの名前を借りてとりあえず作ったのかもしれません。
期待外れながらも、何人かの方の提言は興味深く読みました。興味深かったひとつが、
飯島渉 ロックダウン下の「小さな歴史」
という10ページほどの収録記事でした。
この中で、飯島さんは、中国武漢が封鎖されたとき、ソーシャルワーカーとして働いていた郭氏の日記を絶賛されていました。翻訳はまだないようです。この日記について、
この記録が魅力的なのは、感染症対策にからめとられるだけではなく、個人の暮らしを何とか守りながら、外の社会とのつながりを求める姿を描いているからである。インターネットを通して「網友」との会話はもっとも大切だった。私はそのように読んだ。いわばロックダウンのもとでの「小さな歴史」を集めたものである。これは、現在の日本でもあるだろうし、世界のどこにでもあるはずである。しかし、日々忘れられていく。(77頁)
と飯島さんはコメントされています。これを読み、やっぱりこうした地道な記録が残していかないといけないのだ、と思いました。
コロナは全ての組織・人にこれまでになかった非日常を生み出しているわけですが、それぞれ記録として残しているのでしょうか。意外にその場の対応に終始して記録として残すまでには至ってないのではないかと想像しています。
”日常を記録しておこう”というのは、常々、私もガリラボ内で話していたことです。
日々の緻密な記録が最終的には大きな意味を持つことになります。民俗学者「宮本常一」をみているとそれがよくわかります。
今は、非日常が常態化して日常化するという極めて稀な経験をしているところです。この「非日常の中での日常」を記録として残しておかないといけない。
改めてそう思いました。
特に私が容易に接することができるのは大学生です。ロナ禍という非日常の中での大学生の日常を残しておくことは、日常を重視するのであれば当然やっておくべきことだろうと思いました。コロナ禍の中で大学生は日常をどう過ごして、何を感じ、何を考えていたのかを残しておくべきだと思いました。場合によっては教員の記録も残しておいた方がよいかもしれません。
ここまで考えたとき、それは3年生の後期活動へとつながりました。
3年生(18ゼミ生)は、当初、コロナ禍の中での社会の動きを追っていました。それもあったので、今後目指すべき目標は定まりました。3年生の後期は何をしようかモヤモヤとしていたのですが、その霧が晴れました。
M1(20)アクストは中学校における「小さな歴史」を集めています。それと同様に、18ゼミ生にはコロナ禍の中での大学生(可能であれば教員も)についての「小さな歴史」の収集を手分けしてやっていこうと思います。
どういった観点で歴史を収集していくべきか、そのあたりはまだ明確ではありません、3年(18)中山ゼミ長などと相談しながら、「コロナ禍の中で紡がれている小さな歴史」収集プロジェクトを立ち上げ、そのプロジェクトチームを中心にして、後期までにはじっくりと計画を作っていければと思います。