2019年7月4日木曜日

ようやくの青空

朝はまだ曇ってましたが、雨の降る気配はなくなっていたので、久々に健軍川沿いを歩いて通勤してきました。
健軍川の水量はいつもより少し多い程度で、土手に生えている草がなぎ倒されている高さから水かさが最大になった時がわかりましたが、草の様子が、熊本の雨は鹿児島のような豪雨には至らなかったことを教えてくれていました。
ほんと被害がなくてよかった。


午後には久々に青空が見ることができました。私だけでなく、多くの方がほっとされたのではないでしょうか。
 

今日のガリラボは、ひのくにワークショップの取材が行われていて3・4年生と絡んで賑やかでした。もっと色々と絡むと楽しいのでしょうが、以前に比べると学年を越えて絡むことが減りました。
それ以外には、夕方、M1(19)塘添、福嶋との院ゼミ。今日で、人材育成に関するテキストを読了し、残った時間で研究についての雑談でした。
勉強も大変ですが、研究はそれ以上に大変です。でも、それを乗り越えることで、大きな成長が得られるものです。
頑張ってほしい。





以下は、ガリラボとは全く関係のない昨日の豪雨にまつわる私の個人的つぶやきです。

昨日、ツイッターには「甲突川、がんばれ」「もちこたえろ」といったつぶやきが多数ありました。その中で、次のつぶやきは、多数リツイートされていて、私もリツイートした一人です。


鹿児島の水害は、異動で私が宮崎(都城市)から熊本にやってくる前年のことで、当時住んでいた宮崎でも凄まじい豪雨で、川沿いに住んでいたので、氾濫を想定して、もしもの場合豪雨の中を小さな子どもたちをどうやって連れ出そうかとそんなことを考えながらリアルタイムで鹿児島の状況を見ていたように思います。
その時の豪雨は、鹿児島市の中央を流れる甲突川が氾濫し、大きな被害が出たのでした。
今は、8.6豪雨災害と呼ばれています。
その災害経験を経て、川のインフラ工事が行われ、上記ツイートにあるように、その結果として今回は氾濫を免れたのだと思います。
治水工事というのはほんと大事だと思いました。
  
なお、この時の鹿児島の水害は、その後、NHKのドキュメンタリー番組「Project X」でも取り上げられました。ただし、番組の舞台は甲突川ではなく同じく大災害となった鹿児島市の別の場所でした。
海岸線を走る道路は後ろが崖で前は海という地形で、8.6豪雨によって崖が複数個所崩落。道路が寸断されて、多数の人がその間に閉じ込められたのでした。
陸からの救出は不可能で、閉じ込められた人々は海(錦江湾)からの救出作戦によって助け出され、それが番組として紹介されました。
8.6豪雨はドキュメンタリー番組になるほどの凄まじい水害でした。


日常の有難さとは、普段は全く感じませんが、非常時になるとよく理解できます。
また同時にそうした日常とは、多くの人の手で作り出されていることも知ることになります。
熊本地震の時に私自身が深く理解したことです。
 
エスノメソドロジーの言葉を使えば、こうしたやり方を「違背実験」と言います。
日ごろの順調な社会生活は、違背実験としての非日常の到来によって初めてその姿は可視化されることになります。
鹿児島の人たちは、86水害で可視化された日常に潜んでいた教訓を、上記ツイートにあるように苦労しつつも生かしたことが、昨年の西日本豪雨を超える降雨量であっても甚大な被害に至らなかった理由なのかもしれません(具体的なデータは何もない、全くの憶測での話ですけど、きっとそうだったのに違いありません)。
 
・・・・

話はジャンプしますが、先日、「地域と情報」の講義で、特別講師を担当してくれているIR室のOB(M08)佐藤が、オープンデータを活用したアイデアを考える課題を学生に出してくれました。
受講している学生で編成した13班がアイデアを今週の月曜日(7月1日)に発表してくれたのですが、その直後にこの豪雨となりました。
熊本が豪雨になると予想されていましたが、梅雨前線は思ったほど北上せず、鹿児島に居座りました。
私の子どもと孫とが鹿児島に住んでいます。それもあって、鹿児島市などが出している避難所や防災情報が気になりました。それらの情報の中でも、今回一番重要ではないかと思ったのがハザードマップです。特に甲突川が氾濫したときを想定した浸水予想マップです。
それらを見ていると(そうしたデータを使うと)、留まっていた方が良いのかどうかという判断を助けてくれる非常に重要なデータだと思いました。自分のところが浸水しなくても周囲が浸水してしまうと孤立化してしまうわけで、その場合は当然ながら明るいうちに避難でしょう。その土地に不慣れな人、また子どもを抱えるなどして迅速な動きが難しい人たちは、そうした信頼できるデータを活用しながら次の行動をどうするか判断できそうです。
信頼の高いデータをオープン化し、そうしたデータを市民が使いこなしていくリテラシーを持つようになっていく社会がSociety5.0のひとつの姿です。
鹿児島の豪雨を横目で眺めながら、Society5.0の方向は間違っていないようにと思いました。
もっとも、それが機能するためにはリテラシーとその教育に向けて新しいスタイルが要求されることになりそうです。
  


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