2020年5月31日日曜日

目の前に不連続線が横たわっている?

今日は朝からずっと授業準備。
明日からわが大学でも対面での授業が可能になります。

ただ、今日の準備は全てオンライン授業のための準備。
「あ、ごめん・・・」と誤りもその場で打ち消せる対面と違うので、オンラインで提供する授業は神経を使います。
そのため、対面よりも随分と時間がかかります。

以下、最近思ったことをつらつらと書き留めたものです。
コロナ禍が学校に迫っていることをなどを全く推敲せず、誤字脱字も気にせず書いていきます。
しかも長い(時間があったのでだらだら書いてます)
なので、かなり読みにくいはずです。
最後までただりつくゼミ生がいるかな。wwwww
 
-----

4月当初から、立教大学の真似をして「学びを止めない」を実践し、ガリラボは丸2カ月間、オンラインでのゼミに取り組んできました。
さすが2カ月もやっていると随分と慣れてはきました。

それが、対面でもよいという事態になってから思ったのが、もしもこのまま1年間ずっとオンラインでやっていったとしたら・・・ということでした。
そうしてオンラインが常識になっていったときにどうなるんだろうということでした。
 
先日のM1(20)アクストとの院ゼミでのこと。
久々に「盲人の国」の話をしました。
晴眼者は、盲人の国にいくと、それまでの社会の前提とまるで違うので、盲人の国では晴眼であることが障害となってしまうことを教えてくれる100年以上前の短編小説です。
いつ読んだのか忘れてしまいましたが、これ読んで、私の脳みそは改造されました。
障がいと概念が完全に相対化され、強烈に納得感から、以後、この小説は私がものごとを考えるときの基盤となっています。

近代になって学校制度は成立しました。
近代西欧では、児童労働のような虐待から子どもたちを守るための仕組みとして成立した経緯もあるように聞いたことがありますが、とりあえず国ごとに諸事情はあったでしょうが、制度成立後は子どもたちは学校に行くようなりました。

ところで、その制度以前の学びの場とはどういったものだったのでしょう。
自宅に家庭教師がいて教育を受けていた人たちもいたはずです。
また藩校や寺子屋のような、今でいえば学習塾のようなところで学んでいた人たちもいたはずです。
また幼い時から仕事をするのが当然の人たちだと、仕事が学びの場であった人もいたはずです。
それらの多様な学びの場にいた人々全員が、朝自宅を出て、学校にいくようになりました。
その変わり目のとき、大きな不連続線を越えないといけなくなったとき、様々な事情を抱えていた人たちは、それをどう乗り越え、そして教師と生徒とが教室にて一斉に学ぶ学校ということをどう捉えたのか気になります。

時が過ぎ、それから100年以上がたち、学校にはいくことが当然だと、人は生まれてすぐに刷り込まれることになりました。
人には諸事情があります。
前提に合わない人もいるわけです。
座った作業が苦手な人、そうでない人。
理解の遅い人、そうでない人。
・・・
全員が学校に行くことが常識になると、前者の人たちは学校では困ることなります。
学校がなければ困ることはなかったはずですけど。
晴眼者が盲人の国で困ることになったようなものです。
学校という存在は、それまで問題なかった人たちに、上のような2分法的なカテゴリを生成することになったと考えることができそうです。

何が前提であるかでカテゴリ生成は変わります。
盲人の国という小説は、そうした区別(カテゴリ)が社会的に作られ、障がいというカテゴリを生成していることを教えてくれます。

最初の話に戻りますけれど、学校に行くという前提は、このコロナ禍によってその境界がずいぶんとぼやけたのではないかと思います。いかがでしょう。
会社に行くことも以前は当然でした。首都圏では超満員の電車に乗って会社に行くことが前提でした。それも明らかにぼやけてきてないでしょうか。
日本電産会長の永守さんが、テレワークが始まってからテレワークに対する考え方ががらりと変わったとおっしゃってました(ガリラボ通信2020/5/30)。
テレワークで生産性のかなり上がる社員がいてかなり驚いたということでした。
私も最近は自宅で仕事をすることが増えました。
以前は休日もほぼ研究室に出かけ、そこで仕事をするのが当然だと思っていました。
授業にでていれば安心というのと同じ心理です。
しかし、オンラインが前提になった時、大学に行くよりも生産性が上がることも多いことに気づきました。
是が非でも研究室にいかないといけないと思っていた(学生だと教室での授業を受けないといけない、たとえ寝てしまっても出席のために授業にでないといけないとかいう、そんな感じです)、そんな呪縛から解き放されたような気がしてます。
もちろんすべて自宅ということでなく、昨日も使った言葉ですが、バランス感覚が大切であると思います。
コロナの、ある意味でコロナのおかげで、学生のころから私を縛っていた思想が、アンラーニングされていってるのを実感しています。

そうなると、学校という、それまで前提であったものの境界がぼやけるようになっている(と思います)。
水面下では進行していたのでしょうが、それを急激に顕在化させたのが今回のコロナ禍だったのだと思います。

なだらかな変化は、数学的には微分可能といいます。
その時は、微分から得られる変化率によって未来を予測しながら行動していけます。
工学的な制御機器はすべてそれです。
AIなども似ています。微分可能な予測の枠内にあるものです。
不連続線を前にしたとき、AIからは何も出てこない。

ところが、コロナは、社会に不連続線をもたらし、微分不可能な状況を作り出したのではないかと思うのです。
そうなったとき、徐々に変化して行くやり方は意味がありません。

「大きな物語」という言葉があります。
企業の存在を支えていた大きな物語が、不連続線を境に大きく変わるはずなので、直感でそれを察知した人たちはもう行動を始めているのではないでしょうか。
学校も強烈な不連続線の前にしています。
オンラインが不連続線を出現させました。
ひょっとするとこれは、学校制度成立の時、戦後すぐの時ほどではないにしろ、それらに匹敵するほどの不連続線を出現させている可能性もあります。

大学はどんな学校タイプよりもこの不連続線の影響を強く受けるのではないかと予想しています。
しかしながら、周囲ではまだ微分可能であることを前提にした議論を聞くことがあります。
物語は同じであると無意識に前提として、登場人物をどうするかという感じの議論とかです。
沈んでいく船の内部で微分可能な先の未来を熱く語っているような、そんな印象を持ちます。
安定したはずの物語自体が消滅してしまう可能性があるわけで、それが不連続線の怖さだと思うのですが。



脈絡ありませんが、「大草原不可避」って、わかります?
私は一昨日知りました。
wwwwwwwwwww

もう何年かすると、オンラインと融合した世代が、オンラインを前提にした世代が大学に入ってきます。
そうした世代が入ってくると、つい最近、ホームページというものの意味を我々とは全く違って行動する大学生に接し、驚愕しているどころではないはずです。
 

微分不可能な不連続線。
微分可能な世界を生きてきた解析的人間にとってはたいへんな時期です。
 


  

0 件のコメント:

コメントを投稿