2017年10月5日木曜日

こいたまと玉名市との打合せ/院ゼミの新しいテキスト

午前中、久々に時間を取って、こいたまと玉名市役所との打ち合わせに
参加しました。
市役所からは和田さんと川西さんが参加され、9:30から今後の
ガリラボ側の活動計画を話し、賛同していただき、協力を取り付けました。
12月2日(土)のこいたまと15ゼミ生で予定しているフィールドワー
クには市役所から全面的に協力をしてもらえることになりました。
協力を無駄にしないよう、玉名市の観光表現について新しいものを生み出す
ため準備を進めていきたいと思います。
せっかくなので「世界初」ぐらいの意気込みでやっていきたいと思います。笑

午後は院ゼミ(M2)、そして院ゼミ(M1)。合間に本部棟で、慌ただしい
日でした。


隙間に、丹羽宇一郎著「死ぬほど読書」という本の「はじめに」だけ読んだの
ですが(10分ほど)、面白い!
大学生による「読書はしないといけないものなのか?」という新聞を投稿を
巡って色々な議論があったそうです.
もちろんそういう選択をするのも自由だというのが著者の立場。
確かに自由なのだけど、次のようなことを書かれていました。

  与えられたもののなかばかり生きていると、「自分の頭で考える」という
  ことができなくなります。

これは、文化産業によって意識を駆動され続けた結果、そうなるのだろうと思います。
他者に駆動される思考が主になってしまうと、

  自立した思考ができないから、たまたま与えられた狭い世界の
  なかだけで解決してしまう。

となるから、自立した思考のためにはやはり読書は必要だろうと主張されます。
私もそう思います。自立した思考が弱いとき、

  周りから与えられた狭い世界のなかで、何に対してもすぐに実利的な
  結果を求める。そんな生き方は、いうまでもなく精神的に不自由です。

となってしまう危険性がある。そうなったとき、

  「何でもあり」の世界は一見自由なようですが、自分の軸がなければ、
  じつはとても不自由です。それは前へと進むための羅針盤や地図がない
  のと同じだからです。
  それらがなければ、限られた狭いなかでしか動けません。

という状況を招いてしまう。最悪なのは、そういった状況になっていることを
認識できないことです。

人は、自分の軸を持った方がよい。
先日の遠藤教育長の特別講演(ガリラボ通信2017/9/30)の本質はそこにあった
ように思います。
私も以前にこの場で似たようなことを書きました(ガリラボ通信2015/5/5)。
羅針盤を持たず、計画の中だけを生きてきた人にとって、自由を得るのは難しい。
先の丹羽さんはこう言います。
 
 人は自由という価値観を求めて、長い間、闘ってきました。

そのために必要なことはなんでしょうか。
ひとつには、やはり読書ではないでしょうか。

・・・ということで、M1のゼミでは超難解なテキストを選び、これを3人で必死で
読み進めるという苦行をやっていくことにしました。
精神的自由の獲得に向けた3人の苦しい闘いとなるでしょう。^^;


 

0 件のコメント:

コメントを投稿