2020年1月19日日曜日

大学入試に関する機会費用の話題(など)

センター試験がようやく、そして無事に終わりました。
来年からは「大学入学共通テスト」に切り替わるので、最後のセンター試験でした。
が、特に感慨なはなく・・。
ただ、ひたすら疲れました。

以下、疲弊した頭で思いつくまま書いたものなので、支離滅裂の文章のはずです。
推敲は一切してませんので、もし以下を読み進める場合は、ご自分で適宜補正をお願いします。
 

先日、週刊東洋経済の「経済を見る眼」というコラムがあって、いつもこれは楽しみにしているのです、今週、苅谷剛彦さんが寄稿されていました。
苅谷さんの「大衆教育社会のゆくえ~学歴主義と平等神話の戦後史」という1995年の本を読み、この本で、かなりの衝撃を受け、教育を捉える次元を多少なりとも上げさせてもらいました。
それから、苅谷さんの本はほぼすべて読み続けているほどの(コア)ファンです(笑)。

さて、今回のコラムにあったのが、何かを選ぶことで得られる利益とそれを選ばなかったときに得られる利益の差=機会費用の話題。
機会費用とは、その定義から、ある新しいことを選んだだことで発生する負の側面の意味合いも含むことになります。


今回の入試改革においてこの機会費用のことが厳密には議論されたふしがないとのこと。
国の方向性を決めていくはずの判断であるにも関わらず。
大学で決まっていくことも機会費用はあまり問題ならない。
花火的なことをやってないと評価されないからという面があるのでしょう。
確かに花火を打ち上げていった方が目立ちます。
打ち上げた人は良い評価をもらうでしょうが、打ち上げを終えた後、祭りの後の後遺症をもらうのはそうしたことを知らずに花火を見ていた人たちの可能性があるわけで、そうなると困ったものです。
気づいたときには花火をあげた人はもうそこにはいないという・・・。orz
プログラミング教育のことも例として挙げてありますが、これもその通りだと思います。
それをやった結果、犠牲になることの話をあまり聞きませんので。
私個人は子どもの時代は、じっくり読書をさせて、よい文章を書かせるトレーニングをさせた方がいいのだと思います。
3歳の孫がいますが、絶対にやらせたことは日本語をきちんと修得することです。
優れた日本語習得ために、プログラミングとかをツールを使うというので賛成です。
優れた思考は優れた自然言語からしか生まれません。
直感とかも、情報の基づく直感であって、それは当初は言語化されたものの圧縮形態のようですから。
日本語をネイティブにしているのであれば、日本語をしっかりと使えるようにすること。
それが重要だと思います。
ところが、どうも大学生でも日本語がかなり怪しい。
いや、大学生に限ることもないかもしれません。
苅谷さんのコラムを読みながら、そんなことを思いました。

2日間で体力を消耗すると、比例して思考する力も消耗していくようです。
その意味で思考は、言語と体力に依存しているはず。
疲れてくると、思考どころかマニュアル通りにやることも怪しくなりました。
今日は早く休みます。
明日からは、17ゼミ生がやっている域学連携研究の追い込みです。



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