2020年2月11日火曜日

年齢という強固な思考の枠組みに関連して

無意識のうちにそれが当たり前だと思っていることが多々あります。
次の記事は随分前の週刊東洋経済の記事です。
「年齢による順序化」ともいうべき暗黙のルールで、私たちの思考や行動はこのルールに縛られていることが多いものです。
もちろんそうでない人はいるとは思いますが、一般的には、「年齢」という順序構造を物事の土台とすることが多いですね。
私ももちろんそのタイプです。
年齢によって順序付けするとなぜ安心します。
しかし、改めて考えてみると、どうしてそうした思考をとるのでしょうか。
何故でしょう。
いつの時代から、こうした思考が社会の常識となっていったのでしょうか。
ある時代から(またある地域で)だったとすると、そこには何かの理由がありそうにも思います。


年齢による序列化のルールの呪縛が、この先すぐに消滅するとは思えませんが、この記事にあるように徐々に拘束力は弱くなっていくのかもしれません。
もしそれが進んでいくのならば、これでもまたいろいろな変化が起きていくのに違いありません。

世の中には、無意識に呪縛しているルールがあるかと思います。
例えば、大学で言えば、授業は90分です。なぜ90分なのでしょう。
また、時間割というのでタイムスケジュールで開講する枠を固定するのはなぜか。
知識伝達に教室という空間が使われる理由は。
さらについで、そもそもですが、寒い朝にどうして大学に来ないといけないのでしょう。
その他、疑問はたくさんあります。
それらは、それぞれ(そのとき、その場所では)それなりに理由があったのだと思います。
先日もちょっと書きましたが、それぞれはその時代にマッチした「文体」だったからだと思います。


変化しない時代はありません。
今後も色々と変化し、それに合った文体が開発されていくことでしょう。
新しい文体は、普及していくと常識になっていって、それを踏まえることに誰も疑問を感じなくなるものです。


なお、上の疑問は、社会のパラダイム転換の話題のひとつとして後期授業の最後に少し話をしました。
私の「授業が90分である必要があるのか」という問いは、今後の新しい文体を考えたときの疑問のひとつでした。
が、このことに興味を持った学生はあまりいないようでした。
ちょっと残念。



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