2020年7月22日水曜日

久々のインプット作業

国際会議に投稿していた論文が受理され、レフリーからの審査コメントに答える形での修正も昨日で終わり、その日であったのは偶然ですが、半年ぶりぐらいに(恐る恐るですが)外食の会に参加して刺激もいただきました。
目の前にいた方がやたら元気だったせいか、こっちも元気になり、最後には勢い余って余計なこととを話してしまった気がします。
後悔先に立たず
面倒なことに発展していかないと良いのですが・・・。
口は禍の門。(どんなに歳を重ねてもこの点は学習していないことを知りました。)
 

それはさておき、今日は久々にアウトプットを全くやらなくてよい日となりました。
前に買っていた「人はなぜ物語を求めるのか」なる本を手に取り読んでおりました。
なんでこんな本を買ったのか、今となってはその記憶もないまま、読み進めるとかなり面白い本です。
13歳からのアート思考という美術教育に関する本も届き、パラパラめくってみるとこれもかなり面白そうです。つい、そのまま手を出してしまいそうでしたが思いとどまり、物語の本に戻りました。

この中で興味深かったのが
  「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉
                            枡野浩一
という短歌でした。
人は、がっかりすることが多いわけですが、それはそこに期待があるからで、「がっかり」とは希望にまみれた言葉なんだという捉え方が新鮮でした。
そして「期待」と「希望」の関係に議論が発展し、著者の千野さんは、
  人は期待しているときには希望が持てないのではないでしょうか。
と語られていました。
ナチスの強制収容所の中で絶望している2人の人物に、フランクルという精神科医が、
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ。

と話したそうです。
何度読んでもよく理解できない内容ですが、これは、自分が人生に期待することをやめるということです。逆に、人生が自分に何を期待しているのかを考えるべき、そしてこのことは、何(誰)が自分を待っているのかを考えるのと同等だというのです。
期待とは「待つ」という言葉が含まれている言葉です。
この問いかけにより、絶望していた2人の人物は、やり残した仕事が自分を「待っている」こと気づき、もうひとりは自分を「待っている」子どもがいることを思い出します。
そして絶望から逃れることができたようです。
フランクルはこの点について
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

と語っています。
積極的に引用しながら、どうにも明確には理解できていないのですが、何か自分の外に対する責任を強く自覚したとき、自分が存在する意味を確信し、強くなるということなのでしょうか。

私自身について「待っている」のはどういったものがあるか、考えてみました。
思いつくものをリストアップしていったら、どうにも絶望しか感じなくなったので途中でやめました。orz

なんだかさっぱりわからない内容になってしまいました。

それはさておき、世間は明日から4連休。
東京では感染拡大から外出自粛も求められています。
おうちで過ごす方も多いかと思います。
そういった方のためにArtractが「#おうちで美術館」の取り組みをツイッターで行っています。
https://twitter.com/artract16
参加してみてください。

4連休中はガリラボ通信もお休みします(気が向いたら、あるいはゼミ生が何らか方法で私に接触してきたら発行するかもしれません)。
 


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