2020年9月12日土曜日

オンライン授業が教えてくれていること

立教大学の中原先生が、テレワークが「死語」になる日ということをブログに書かれていました。

http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/12173

実際、定着したものは”当然すぎて”死語になることがよくあります。
昔、「情報化社会」なる言葉がよく使われたころがあります。コンピュータが一般の人たちに普及を始めようとしていた頃で、まだ多くの人はその実態は理解できてなかった頃です。それが今は、もう完全にその社会になっています。あえて「情報化社会」と呼ぶ人はいないのではないでしょうか。今だと、Soceity5.0という言葉を使うでしょう(まだ実現されておらず、未来に希望が持てそうな言葉は、人はそれを積極的に使おうとする癖があるようです)。

学生のころ、大好きだった物理学者に高橋秀俊という方がいます(日本で最初のコンピュータの実現に尽力した方です。今は当たり前すぎて言葉自体は「死語」になっているTSS(タイムシェアリングシステム)の概念もこの方のアイデアでした。TSSの設計の際にこの方が人間の癖を綴ったにやりと笑える格言はコンピュータ設計者にとって崇拝されていました)。会ったことはありませんが、この方のエッセイや教科書が大好きで、ファンでした。特に「数理の散策」というエッセー集が面白いものでした。この本の中で、「名前の役割」というエッセーがあります。ガリラボ通信でも書いたことがあるなと思い、検索したら6年前に書いていました。

人生は自作自演・・・講演を聞いてガリラボ通信2014/2/13

なかなかよい内容です。これ以後を読んでいくよりも、この「人生は自作自演」を読んで「言葉」のことを考えてもらう方が価値があるかもしれません。

さて、中原先生のブログを読みながら思ったのは、大学での「オンライン授業」というものの死語になっていくのだろう、ということでした。今は「オンライン」「遠隔」といった言葉がメディアでも躍っていますが、重要なのは、学生たちがどう学習していくかであり、オンラインだとか対面という方法はそのための手段です。オンラインでもオフラインでも、方法はどっちだってよいわけです。ただ、これまでは対面=オフラインにより教員と学生とが同じ空気を共有していることが絶対的に正しいとみんな信じていました。

昔、ある方が、「おれは講義ではマイクは使わない。自分の声を直接届けることが大事なんだ」と真剣な顔で話されていたことを思い出します。

また、ワープロが登場してきたころ、「レポートは手書きでなければいけない。ワープロで書いたレポートなど受け取らない」と公言していた人もいました(ほとんどの教員がそうでした)。

すべての教室にマイクが完備した時代、そして誰でもワープロを使える時代(今はスマホを使ってレポートを書く強者もいます)になって、上の発言を読むと、微笑ましい昔のエピソードだなと感じます。

レポートだと、重要なのは「内容」でしょう。どういった議論をして、アカデミックな内容として優れていることが重要なのであり、手書きなのか、ワープロなのかはあまり関係ありません(もちろん手書きが重要な場合はあることは否定しません。どういった場合があるでしょう。これも考えてみてください。手段が本質的になる場合もあります)。

対面授業が絶対的だと考えていたことも、上の例と似ています。
対面もオンラインも要するにどっちだってよいのだと思います。要するに、優れた授業になっていて、そして学生たちに優れた学習の場が提供されていたかどうか。学びの結果が重要なのだと思います。
対面授業では、学生たちも、「授業に出ていた」ということに価値を見出し、仮に寝ていても教室にいたことを評価してほしいと思っていたふしがあります。
(仕事もまともにせずただ)会社にいたことを評価してほしいと言ってるようなものです。しかし、それは今後は通用しないでしょう。対面の授業にただ出ていたというは何の評価にもならなくなっていくはずです。

コロナ禍は、仕事の方法や学びの方法についての思想的変革をもたらしているのだと思います。
仕事には「成果」が極めて重視されるようになるでしょう。そのための方法として会社という空間を使うか、自宅を使うかあるいはスタバを使うかは本質的ではありません。
授業の場合は、対面で受けようが、オンラインで受けようがこれも重要ではない。主体的に学習を行い、学びをどう深めたかが重要になっていくでしょう。
実力のある人、主体的に物事を進めていくのに長けている人にはよい時代になっていくのだと思います。

コロナ禍は、平成の時代に定着した私たちの思想に大きな変革を迫っています。特に大学における現在の思想は、ユニバーサル化した平成の時代に定着した思想が主流であろうと思います。それが壊れようとしている。ある意味、令和という時代にふさわしい新しい思想が今構築されようとしているのかもしれません。



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