かなり前に買った吉村昭著「三陸海岸大津波」なる薄い本をようやく
読了しました。
最初は、「海の壁-三陸沿岸大津波」とのタイトルで1970年に発行
されたようです。
それが「三陸海岸大津波」と改題され1984年に中公文庫として発行
されています。
福島第一原発の第1号機の営業運転開始が1971年3月のことなので、
その直前にこの本は出ていることが分かる。
どの程度、関係者の目に留まったのでしょうか?
高度成長にひた走っているとき、この小さな書物の記録は影響を
与えることは難しかったようです。
原発の問題はおいておき、この本を読んでいると、日常性を犠牲に
してまでも、災害等の教訓を守り続けることの難しさが伝わってきます。
明治29年の大津波で2万人以上が犠牲になり、その教訓から 高台への
住宅移転が行われたようです。
現在もそれが議論されていますが、当時もちゃんとそういうことが議論されて
いたわけです。
しかし日常生活の不便さ、特に漁業の場合、海から遠くに自宅があることは
不便この上ないことですから、不便さに 負けて記憶が薄れるとともに逆戻り
していったようです。
このことに関して、この本の151頁にこういう記述があります:
つまり稀にしかやってこない津波のために日常生活を犠牲には
できないと考える者が多かったのだ。
しかし、明治29年につぐ昭和8年の大津波によって、徐々にでは
あるが、住宅の高所建築がすすめられていった。
このような対策が取られながら、しかしやはり同じように災害の記憶は薄れて
いったのです。
昭和35(1960)年、チリ地震津波によって東北は大きな被害を受け、岩手県
下で100名を超す犠牲者を出すことになります。
吉村昭は、いくつかの津波を体験してきた早野氏(当時87歳)を取材し、その
早野氏の次の言葉でこの本の最後を結んでいます。
津波は、時世が変わってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。
しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、
死ぬ人はめったにないと思う。
初版本が出されてから40年後、早野氏の前半の言葉は正しかったことが
わかります。
しかし後半の言葉は間違っていたことを、311は教えてくれました。
記憶の風化に抗するのは極めて難しい。
ちなみに、風化に少しでも抵抗すべく、阪神淡路大震災については災害エスノグラフィ―
なる調査が行われていました。
防災の決め手「災害エスノグラフィー」―阪神・淡路大震災秘められた証言
この災害エスノグラフィ―についてはNHKスペシャルでも放映されています。
こういった感じで、様々な手段を使って記憶を風化させない工夫が行われている
わけです。
災害の記憶に限らず、地域の記憶と言うのは語り継ぐ努力が失われた時、
消滅し、その地域は場所性を失って均質な空間へと変貌していきます。
場所の記憶は意識的に語り継がないといけない。
そう思っています。
さて、ガリラボが、これまでのProduce Xという活動で行ってきたことを改めて
見直すと、要するにこういう地域の記憶を残していく活動に近かったのではな
いかとそう思うようになりました。
もちろんそのような視点で見てきたわけではありませんけれど、今後はその
観点で活動していこうと決めました。
Produce Xは今後も継続します。
特に今年は菊陽町にてそれを実践しようかと考えており、3年生に中心になって
もらいたいと思っています。
どういう風にやっていくかはまだ未定ですが、菊陽町の黒田(院(06)OB)と共に
しばし知恵を絞り、活動方針をひねり出していく予定です。
玉名は今年も活動するわけですが、こちらでも同時に似たことができればいいなと
考えています。
こちらはもう4年(08)の大塚が自主的にぐいぐいと動いています。
今日も玉名の祭りの手伝いに行き、手伝いながら地域の人たちから様々な話を
きいてきたようです。
http://twitpic.com/50rngo
すでに一人でエスノグラフィ―を実践しているようです。
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