2013年12月23日月曜日

知識は学びの機会を放棄させる?

いつ以来か記憶にないほど久々に、休日に車で出かけたのですが、阿蘇山頂は
ご覧の通りの雪景色でした。晴天だともっと奇麗だったのに違いありません。


さて、外出も久々でしたが、今日は久々にガリラボとも全く無縁の一日でした。
365日の内で、どれぐらいでしょうか、ガリラボのことを考えない日は。
両手、いや、ひょっとすると片手ぐらいで済んでしまうかもしれません。

ガリラボと関わっていると色々な学びがあります。
学生たちと話していると、この年齢になると分からない多くのことを体験
しているからです(もっとも学生自身がその体験を自覚できていない場合も
多いのですけど)。
そうした話を彼らから引き出せるとハッとすることが多く、見知らぬ世界を
見た気分になります。

ガリラボでは社会人と関わることが多いので、社会人の方が学生と接する
機会を見ることが多いのですが、たまに学びの機会を放棄されている社会人に
出会うことがあります。
学生たちはこれから新しい文化を生み出して行く主役です。
その役割は絶対に大人ではありません。
彼らの感性の集合体が、未来の新しい社会を形作っていくはずです。
学生の持つそうした潜在的価値にはなかなか気づけないのですが、しかしせっかく
新しい知識が目の前にあるのに、それを見ようとせず、目の前にある新しい時代
の空気について学ぶ機会を放棄している大人が一定程度おられます。
原因は、持ち合わせている豊富な知識のせいかもしれません。

将棋名人の故・米長邦雄さんは、将棋界で一定の地位を獲得した後も、新しく
生まれて来る将棋のスタイルを学ぼうと若手棋士を師匠とし、若い人たちとかか
わり合い、新しい将棋のスタイルを学んでいかれている様子を、以前にテレビ番組で
見た記憶があります(うろ覚えですので、正確かどうかは不明です)。
その米長さんが次の心得を残されています。
面白いですね、特に3番とか。吹き出してしまいました。


3番目はとりあえず置いておきますが、年配の人は「威張らない」「お説教しない」と
いう原則をなかなか守れない。
それは、ついつい、自分が持っている知識が邪魔をしているからではないでしょうか。
知識は本来何か新しい事態に立ち向かっていくためのものですが、気をつけていないと
それがよくない形で作用してしまう。
勉強した結果、一定程度の知識を持つと、その賢さのせいで周囲に物足りなさを感じる
傾向があります。
だけど、その感覚は間違っています。
学ぶことは誰が相手であれ、おそらく山ほど(無限に)あるはずです。
だけど、知識を使用価値でなく交換価値的に捉えてしまうと、知識は人を学ばせない
道具として作用してしまう。
他者が持っている多様な情報を、知識が、遮蔽してしまう。
知識とは、そんな性質を持っている。
気をつけないといけないなと思います。
 
米長さんの凄さは、名人位について極めて高度な知識を身につけられたはずですが、
それが邪魔することなく、若い世代の持つ新しい知識に向かっているところです。

この問題は、年配者だけが陥ってしまうものでもなさそうです。
若くても、持っている知識を過信し、それに安住してしまうこともありそうです。
そうなると、若くても学びをやめてしまうこともあるのではないでしょうか。
知識を過信しないこと、謙虚であること(ガリラボ通信2010/9/15)、他者という
存在に畏敬の念を持つことが学びを起動するのに重要ではないかと思います。

かなり久々に阿蘇の山々を見て、凛とした寒さの中、畏敬の念なる言葉を想起し、
今日はこんな話題になってしまいました。


1 件のコメント:

  1. 誠に人生の、人が生きることについて、
    真意を突いたコラムです。
    私もガリラボの後輩と関わるのは、
    自身が学び成長するためです。
    そこに尽きます。
    その前提に先生への感謝があります。
    威張らない、説教しない、勘定するにも大賛成!
    私の方こそ、ありがとうです。

    最後に知識と共に経験が邪魔をすることもあります。
    人はされたことしかできない、
    下に同じことをするとの考えの方が居ました。
    良いことはそうだが
    悪いことにはそれを当て嵌めて欲しくない。
    知識や経験は財産であり
    善くも悪くも武器にも盾にもなります。
    人を守るための育てるための物で在って欲しいですね。

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