2011年2月27日日曜日

二つの授業の比較から見えること

ガリラボの風景とは直接的には関係ない内容ですが、興味深い記事(下に掲載
してます)を見つけたので紹介したいと思います。

すぐ役立つことは、すぐに役立たなくなる、ということを貫いた授業に
ついての記事です。
感銘を受けました。

指導要領でがっちりと縛られていると、こんな授業は無理だと思いますが、
昔はその辺りはおおらかだったんですねぇ。

数年前にある高校で、先生たち向けにこれに似たやり方を紹介したことが
ありますが、それは大学だからできることで、高校では指導要領があって
無理だという反応がありました。
確かにそれはそうなのでしょうが、否定からは何も生まれない・・・・

ところで、橋本先生のような授業を実はガリラボでもやっています。
特に最近では、OGに対し開いている私塾でそれを実践しております。
彼女とマンツーマンで、ほぼ毎週木曜の夜、1回3時間ほど1年間かけて
わずか90ページほどのテキストを読んでいくのです。
 
教師であるこのOGに、教師としてすぐには役立たないけれど必ず役立つ
ことになる(と信じている)テキストに書かれている深い含意を一緒に読み解
いていっております(あと少し数ページで辿り着きます)。
もっともそれが成果を上げたかどうかはもちろん不明です。 
 
一方で、この橋本先生とは対極のやり方もあります。
これもかなり昔の話ですが、ロサンゼルスの荒れた公立高校で数学のヒーリー
先生がやったもので、1年間教えない授業というのを実践しました。
(※ガリラボは実はこっそりとこの授業をモデルにさせてもらっています)
この授業、橋本先生のやり方とは対極にありますが、しかしこれも目覚ましい
成果を上げることになりました。
 
さて、ここで不思議なことに気付きます。
 
橋本先生のように、教師が前に立ち、テキストを丁寧に読み解いていく授業、
一方でその逆にヒーリー先生のように教師はほとんど前に出ず、生徒主体に
授業を進ませていくもの。
 
これが双方ともに成果を上げたということです。
一見逆に見える二つのやり方が、同様な成果を上げている。
どうしてでしょう???
 
それを解くカギは、ほんとどの人に混同されてますが、教える行為と学びという
行為は異なるもので、学びは教える行為に先行するという事情があるからです。
人は、教えると学びが起動すると思いがちですが(多くの教師や親がそう思い込
んでいるふしがある)、それは違います。
 
教えることは学びの十分条件ではないのです。
必要条件にさえならない場合だってありえます。
 
さて、先の疑問はどういうことになるのでしょうか?
時間のある時にでも考えてみるといいでしょう。
 
だって、単に答えだけを性急に求めない。
そのことをこそが、橋本先生が伝えたかったことでしょうから。
    
 
しかし、この記事を読み、教育の成果とは恐ろしく長い時間がかかるものだと
改めて理解した次第。気が長くないとやっていけないですね。

・・・・・・・・

------------------------------------------------------------------------------
東大合格激増させた灘校伝説教師の授業は文庫本1冊読むだけ
NEWS ポストセブン 2月25日(金)10時5分配信
 
 文庫本1冊を3年間かけて読み込む授業を行なう伝説の国語教師がいた。生涯心の糧となるような教材で授業がしたい、その思いは公立校の滑り止めに過ぎなかった灘校を、全国一の進学校に導き、数多のリーダーを生み出すことになった――。

 教師は、文庫本の一節を朗読すると、柔らかな笑顔を浮かべ紙袋を取り出した。生徒たちは、今日は何が出てくるのか、と目を輝かせる。出てきたのは赤や青、色とりどりの駄菓子だった。

 教師は、配り終わると教室を制するようにいった。

「もういっぺんこの部分を読みます。食べながらでいいので聞いてください」

 読み上げたのは主人公が駄菓子屋で飴を食べる場面。

〈青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると――〉

 生徒の一人はこう呟く。

「普通なら飴を噛み折る音って『ぽきん』『ぱきん』だけど、確かに『こっきり』のほうが優しくて甘い味の感じがでているなあ……」

 灘校を東大合格者数日本一に導いた「銀の匙」教室の授業風景である。教科書は一切使わない国語の授業。文庫本『銀の匙』(中勘助)1冊を横道に逸れながら中学3年間かけて読み込む。

 前例なき授業を進めたのは橋本武先生、御年98歳。50年間教鞭を執り、昭和59年に同校を去った。橋本先生が退職して27年を経た。だが、今も「銀の匙」教室は、伝説の授業として語り草となっている。

 では、橋本先生が生徒たちに植え付けたものとは? 橋本先生はこう語っていた。

「“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づいていこうとする力こそが国語力です。それは“生きる力”と置き換えてもいい」

 教科書を使わない、一つの言葉につき脱線する授業に生徒の戸惑いがなかったといえば嘘になる。あるとき生徒はこんな質問をした。

「先生、このペースだと200ページ、終わらないんじゃないですか」

 橋本先生は教室を見渡した後、静かな口調でいった。

「スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります。何でもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。そうやって自分で見つけたことは君たちの一生の財産になります。そのことはいつか分かりますから」

 言い終わると、頬を緩め、再びプリントを配り始めた。

 東大総長・濱田純一氏は、このとき教室にいた生徒の一人だ。いつか分かりますから――その言葉通り橋本先生の教えを財産にしている。

「改めて素晴らしい授業だったんだなぁと。僕らが大学で原書講読をやる時のやり方と似ています。一つの言葉に拘ることでその背後に広がる概念や感覚や考え方と繋がってくるわけです」

※週刊ポスト2011年3月4日号
  

0 件のコメント:

コメントを投稿