2011年2月17日木曜日

変化することを巡って

ガリラボとは直接関係ない話です。

今朝がたGoogleリーダーでブログを拾い読みしていたらこんな記事に
出会いました。
読みながら、やっぱりそうだよねと深く賛同をしました。 
---------------------------------------------------------------------
彩香さんは琉球舞踊のトップ(芸術選奨受賞)の地位からいきなり転じて
「伝統の琉球料理を守る」という使命感から料理の世界に入った人。
「それはどうして?」と駒沢さんに訊かれてこう答えていた。

「ワタシは琉球舞踊をやめたつもりは一切ないの。伝承と伝統は違うんです。
伝承は古いものをそのまま伝えて守ること。伝統は古いものを大事にしながら
新しいものを取り入れて作っていくことだから」
---------------------------------------------------------------------

かなり前からゼミや講義などで「不易流行」についての話をしています。
不易とは変化しないということ、一方で流行とは変化を指します。
俳諧用語ですが、両者は同じことの両側面と言うのです。
変化しないことが変化することと同じ。 
最初は意味がわかりませんでしたが、伝統料理を想像した瞬間に分かりました。

伝統的な料理というものを前にした時、それはたぶん昔の料理そのものでは
ないだろう、と。
変化に変化を重ねて、その時代に合う形で必死で変化してきたものだけが、
不易という不変を手に入れるのだ、と。

これは、ガリラボ通信でも前に取り上げた
同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない
という進化における「赤の女王仮説」と同じです。

油断していると、若い学生であっても走りを止めているものです。
自分で気づかないことが多いというのが恐ろしいところ。
自分の速度を常にチェックすることが必要でしょう。
昨日、きくりん人のメンバーと打合せをしているとき、話しながら、走っている
ようで意外に走っていない(あまり変化をしていない)ことを感じたぐらいです。
もちろん、そういう自分も意外に走っていないかもしれないので、モニターを
怠らないよう、そのためのツールとしてガリラボ通信を利用している次第。
もしもこれが毎日の活動のチェックを忘れ、更新されなくなったら、理由は
二つ。
①死ぬほど忙しいか、②走るのをやめてしまったか、
どっちかだろうと思います。^^
なお、①は一見良さそうですが、それだけで振り返りがないようだと
あまり良いことではないですね。

余談ですが、学校というと、一見不変に感じる社会装置も同じです。
今生きている人は全員学校の存在を空気のように感じている確固たる
普遍なものでしょうが、この学校も長いスパンでみると不易であるために
流行を繰り返してきたというのが歴史的事実。
印刷技術が発明され、書籍(ノートなども含めた広い意味での紙媒体を
代表して書籍と表現してます)という新しいメディアを誰もが手にできる
ようになったとき、学校は極めて大きな影響を受け、今日のスタイルへと
変化を遂げました。
近代の学校教育が、書籍というメディアを土台に構築されていることは
明らかです。
書籍(そしてノート)というメディアが教室に椅子や机というツールの導入を
強制し、教師の知識を伝えるメディアとしての黒板を、ノートという記録メデ
ィアに書き取る効率を高めるように教室空間が設計される、そしてまた紙
媒体に対して最適設計されているから紙媒体は益々有効なものとして
利用が促進される、そういった相互関係にあります。
しかし、今はITの発明と普及で、メディア環境が激変しています。
メディアに関してはグーテンベルク以来の環境変化にあると言ってよいでしょう。
この先、学校教育の土台となるメディアは何になるのでしょうか。
「ググれカス」というコトバで象徴されるように、たぶん書籍はサブ的位置に追い
やられる可能性もあります。
色々な見方ができますが、同じ場所にとどまるには変わらなきゃいけないと
いうことは正しかろうと思います。
ガリラボのみなさん今日も頑張りましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿