15歳までを過ごした私の原風景です。
山と海と挟まれたわずかな平地で生計を立てている集落です。
目の前には真っ赤な柿の実がまだ残っていて、その傍に菜の花が咲いていました。
秋と春とが共存していて驚かれされました。
昨年前まではここではモバイルWiFiの電波がまったく入らず、ネットと切断
されていましたが、今年は辛うじて(微弱ですが)つながっています。
(ということで、ガリラボ通信を書くことに・・)
時代は着実に変化しているようです。
しかし、原風景はそのままです。幼い頃に見ていた風景から全く変化していない。
驚きます。
変化しないというのは、ある意味で、どうしてそうなのか何らかの説明が必要な
気がします。
まるで変化していない原風景を前に、2009年にガリラボでフィールドワークした
水俣市の越小場地区を思い出しました(ガリラボ通信2009/10/26, 2009/11/22)。
越小場に行ったとき、そこに何もないことに驚いたことをよく覚えています。
今日見ていたわが原風景を同じです。
だけど越小場地区とは大きな違いがあります。
そこに住む人たちの考え方です。
地元学で出て来る「無いものねだり」ではなく「あるもの探し」という価値の
転換です。
越小場ではそこに住んでいる人たちにそんなパラダイムの転換が起きていた。
人は、客観的には同じ対象であっても、それを見る視点によって、全く違うものに
見えるものです。
ウィットゲンシュタインという著名な哲学者はそれをアスペクト変換と言ってた
ように思います。
客観的には同じであっても、気持ちの持ち方で多様な捉え方ができるわけです。
変わらないわが原風景に驚き、ここではアスペクト変換を起こすことができない
ままに推移しているのだろうと、そんなことを考えた正月でした。
唐突ですが・・・
ただいまガリラボでは、「ミニッツメイド」というチーム(2年(12)田中、坂本、
4年(10)石原、吉村)が熊本市のまちづくりをテーマにした動画制作に挑んでいます。
街の見方についてアスペクト変換ができると、普通には思いつかないけれど、それを
見たら誰もがわかる独創的な映像が出来るのではないかとも思います。
創造のひとつの手法です。
宮崎の風景を見せて戴き、
返信削除私も先月に群馬の風景を見たことを思い出しました。
気付いてないだけで、
あるんですよね、面白いものたちが、人達がいること。
地元に帰ろうの意味が分かりました。
なお、私は井森美幸の遠い親戚でした。
さらに、群馬のスター糸井重里の話を祖母としました。
今年中にあらゆる手を使い糸井さんに会いに行きます。
元旦に1つの目標にしました。