2014年1月13日月曜日

修論の添削作業中

昨晩遅く23:00頃に、M2(12)坂本が修論の草稿を送ってきました。
そしてそのすぐ後にM2(12)大塚からも送ってきました。
タッチの差で坂本が早かったので、坂本の修論から読もうと思い、ファイルを
開き、さっと一通り目を通し・・・。
約30分後に返事を書きました。
「●●の部分がきちんと書かれてないので、添削ができない。朝までに
修正して送りなさい」と。
締め切りが近づいてきています。
これから続く私とのキャッチボールの効率を考え、徹夜でやり直せと指示したのです。
朝の6時に修正された原稿が送られてきていました。
学部生からみると大変そうに思うでしょうが、こんなのは当然です。
普通だと思っていい。
だって、ただ完成させなさいでなく、高品質のものを完成しろと要求して
いるのですから。

もらった修論の原稿を今日は添削しておりました。
学部の卒論と院生の修論とをこの時期に同時に添削するわけですが、両者の
差はかなり大きい。
次元が違います。
学部生の時にはそれは気づかないでしょうが、院生になって、それこそアカデ
ミックなコミュニティに十全的参加を始めるとようやく質の違いを見えるように
なるでしょう。
(幼児から見たら、小学校の数学も中学校の数学も同じように見えるはず。でも、成長して自分が
ある程度のレベルになると、その差がわかるようになるものです。
正統的周辺参加論という理論で言う参加の軌道、そしてアイデンティティの変化とは、実はそういっ
た見え方が異なるという現象を表現したものです)。
世の中の現象を、理論的に整理して、文章によって形にしていく作業は思いの他
大変です。
4年生は卒論で大変でしょうが、M2の人たちの大変さは次元が違う。
だけど、その過程で、院生は、ものごとに対する考え方を学ぶようになっていく。
もちろん、人によって個人差はあるでしょうけど。

なかなかこうした学びの経験はできません。
社会人になっても学ぶでしょうから、社会人になってからそういった学びを
やっていけばいいと思うでしょうが、そうじゃないんですね。
社会人とは実践の人です。理論の人ではありません。実践とは、いつもアドホックな
ものです。
例外があまりに多かったりするからです。
だから、その場対応的能力が極度に発達していく。
だけど、それはものごと全体を俯瞰して、見渡していくような知とは違います。
意外に社会人になると視野が狭くなってしまうものです。
社会人だからといって視野が広いわけではありません。
現場における知は、広い視点でものごとを捉え、次の行動に向かっていくアイデアを
考えて行く能力とは異なっている。

学部の卒業論文がやってきたことの実践のレポートだとすれば、修士論文は、
広い視点の中で、自分のやってきたこと位置づけ、その中で、良し悪しを整理して
いく、そういった知の表現になっている。
研究を通して大学院で訓練している知とはそういうものです。

そうした訓練の違いが学部の卒論と院生の修論とを見ていると、如実に表れて
いるなと感じます。
 
大学院で勉強して行く意味はこういったところにあるのだと思います。
世の中の仕事はどんどん高度化してきている。
先日(2014/1/12)のNHKスペシャルでは、生活インフラを世界中に売って行くと
いうことを北九州市の職員さんがやっていることが紹介されていました。
世の中の仕事は複雑化しています。
さらにグローバル化している。
文系の公務員であっても高いレベルの知が要求され始めていると感じます。
複雑化していく仕事に対応して行くため、研究を通して鍛えた知でそれに立ち向かっ
ていく人材の必要性から、修士レベルの教育は当たり前になりつつあるようです。
(現在、医学、工学、農学、薬学と院に進むのが当たり前になっており、現在は理系が主ですが、
これが文系にも拡大して行くように思います。ちなみに、教員採用も修士レベルが検討されています)。
  
坂本の修論原稿を読みながら、添削すべき箇所のあまりの多さに疲れ、休憩して
いるとき上のようなことを考えておりました。
添削作業に戻ります。
 

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