2016年2月9日火曜日

修士論文口頭試問「M2(14)吉村」/「どりぃむ」サンプル届く

本日、M2(14)吉村の口頭試問を行いました。修論のタイトルは
 アクティブ・ラーニング型授業における学生の成長メカニズムに関する研究
というものです。
2人の副査の先生からはそこまで厳しい質問を浴びせられることもなく、淡々と
落ち着いて答えていたように思います。
学部卒の院生の中では稀にみるほど勉強をした吉村でした。
また2年間みっちりと研究も行ったので論文としての質は高いものであったように
思っています。
研究を通して学生の成長を追ってきた吉村だったわけですが、その吉村自身の
成長はどうだったのでしょう。
大学院の2年間とは、吉村にとってどんな意味を持ったのでしょうか。
私自身の例で恐縮ですが、手書きで200頁ぐらいの修士論文を書き終えたとき、
遥か昔のことですが、目の前が非常にクリアになったように感じました。
世の中(自然ですね、この場合)の道理が一定程度わかったような、そんな印象を
持ったことを今でも良く覚えています。
レベルはさておき、前提を含めあるテーマに沿って無矛盾な体系を整えたからだった
のではないかと、今振り返ってみるとそう思えます。
大学院を就職との関係だけで見る向きもあります。確かにそれはそうで、特に文系の
大学院の場合、就職についてどうなのだと言われると厳しいわけで、効率という面を
否定するものでありませんが、だけどそれだけでないこともありえるのではないかと
そう思うこともあります。そんな時に、よく思い出すのが、空海の「空白の3年間」という
話です。詳しいことは次のエントリーで紹介しています。
  空白の3年間という話ガリラボ通信2012/2/4
これにさらに付け加えるとしたら、「経験という牢屋」のお話です。
  「経験という牢屋」のスピーチを読んでガリラボ通信2013/4/14
すなわち、社会に出ればそこで豊かな能力が育まれるとは限らないのです。
社会経験とは能力向上の十分条件ではありません。
時間を気にせず必死で勉強する時間をもらったとき、それを真に利用した人たちは
その空白の期間を終えた時、それまでは異なる世界(視点)を獲得しているのでは
ないでしょうか。
さて、6万文字に及び修論を必死で書き終えた吉村。
吉村の目に今現在映っている世界は、果たしてどういうものでしょう。
大学院の意味を振り返りながら、いつか、ゆっくりと聞いてみたいと思います。



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本日、「どりぃむ~それぞれのカタチ~」のサンプル版が届きました。
ちゃんと本になっていました。笑
居合わせた3年(13)飯沼、多賀、出口も歓声を上げていました。
本づくりに苦労してきた3年(13)塚田ゼミ長が感慨深げに本を眺めています。
明日、そうした感情は忘れ、理性だけ残しミスに立ち向かい、ミスを根絶後、
業者さんに正式な印刷のGOサインを出す予定です。
GOサインを出すのはもちろん塚田です。

 
 
 

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