2018年1月12日金曜日

多層な時間を生きる

薄暗い朝だったら昨日から一転して、本日は良いお天気でした。
ただし、気温はかなり低め。冷蔵庫内より低かったように思います。

天気が良くなりましたが、阿蘇の山々は、寒さで雪が溶けるまでは
至ってないようで、残雪をあちこちに残しています。夕方になっても
残ったままでした。遠くに見る限り、非常にきれいな風景でした。


本日はセンター試験前日で講義は休講、学生たちは立ち入り禁止ということで
非常に静かでしたが、私の方は午前中は熊大で会議、午後は打ち合わせ、そして
企業訪問と外回りでした。
この寒さだと、(ちょっとでしたけれど)外回りはつらいものです。震えなが
らの移動でした。
お昼はガリラボでひとりランチ。お弁当を食べながら鷲田清一さんの新聞コラム
いくつもの時間(日経新聞2018/1/7)」を読みました。pdfで2,3ページの
短いものですが、心に刻まれました。

例えば、
  人はいろんな時間を多層的に生きるポリクロニックな存在である。
  ゆたかに生きるというのは、それぞれの時間に悲鳴をあげさせないことだ。
  どれか一つの時間が別の時間に無理をかけているというのは、生きもの
  として不幸なことだ。
ということですが、わが身を振り返ると何とか一直線のようにある特定の時間だけを
重視し、モノクロニックな存在になっている。
それだけであればまあ自業自得ですが、鷲田さんはそうすることは自分の問題だけに
留まらないのだとおっしゃいます。なぜなら、
  人は他の生きものともいっしょに生きている。
からです。他の生きものといるにもかからず、それができてないとき、それはいびつな
生き方だとのこと。他の生きものとの
  そういう時間のなかにじぶんをたゆたわせることもできずに、いまは仕事で
  忙しいから、しなければならないことがあるからと、耳を傾けずにそれを
  操作しようというのは、生きものとして歪(いびつ)なことである。
確かにそうでだなと思いつつ、そして、
  余裕のなさから出たその言葉が、自身のみならず、同じ時間をともに生きる
  相手を想像以上に痛めていることを知るべきだ。
と指摘されます。その通りだと、作ってもらったお弁当をむしゃむしゃ食べながら
わが身を振り返っておりました。

そうえば、ガリラボも他の生きものと一緒に生きています。あまり意識されてない
かもしれませんが、寒い廊下で、シクラメンには蕾が随分と増えてきています。


もう1匹。1匹になって随分と長いですが、このメダカもガリラボの中で懸命に
生きていますが、最近は今一つ注意をしていないような・・・


生きている多層的な時間の中で、ただひとつだけに悲鳴を上げることなく、余裕を
持っていきたいものです。ただ、歪ではあっても、それはわかっていながらも、
今はちょっと無理そうです。
 


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