先日のガリラボ通信2018/5/17で、学生GPチーム「たまらん」が域内コミュニケーショ
ンに向けて玉名市の「広報たまな」にコーナーを設けさせていただくことになったこ
とを紹介しました。
軽い気持ちだったのです(玉名市の皆さん、すいませんm(_ _)m)、お願いをするまでは。
ところが、GOサインを市役所からもらった途端に「責任」という単語が目の前に現れる
ようになり(涙)、出張中もコーナーで連絡することが頭から離れず・・・。orz
我々が、物書きのド素人が果たしてできるだろうか、と。
プロはド素人の視点をド素人のように表現できますが、ド素人は自分が見たものをその
まま表現できない可能性が高いので。
一発勝負だったらまあ一発屋的にどうにかなるだろうと思いますが、連載となると、
ビギナーズラックのようなものを期待できませので。
さらに平野さんから「日常」を扱っては・・という恐ろしいテーマ設定も出てきて、
ハードルは一気に跳ね上がりました。
「日常」は昔から私自身のテーマでした。
少し前のゼミ生たちにはそのことを口が酸っぱくなるぐらい話をしていて、特に
09・11ゼミ生で菊陽町で活動していたチームには頻繁にそのことを伝え、それで
このチームは「日常」というものにこだわってくれていたように思います。
また、ガリラボの日常を写真で残し始めたのもこの頃からでした。
そのことについてガリラボ通信2013/5/3に書いています。
写真記録を担当しているゼミ生は読んでもらえると嬉しい。
その後、私の生活変化もあり、雑談をする機会が減り、そんな想いを話をする機会が
あまりなくなって、いつしかゼミ生に対し「日常」について語ることはほとんどなく
なっていきました。
ゼミ生もそれで日常について気に留めることはなくなっていったように感じています。
ただ、日常の大切さを改めて感じさせてくれたのは熊本地震でした。
東北の人たちは311でさらに感じられたことでしょう。
地震と日常のことについてOG(13)飯沼がガリボイス(現在継続していません)として
書き、新聞に投稿しています。
飯沼の投稿と一緒に日常について書いたガリラボ通信2016/5/8を在学ゼミ生は、特に
チーム「たまらん」には読んでもらえると嬉しい。
日常とその表現については、語り始めると長くなる傾向がありますがせっかくなので
先日の見つけたWiredの記事を紹介します。長くなりますが・・・・
Wiredのサイトで、写真アプリ「Minutiae」のことが紹介されていました。
https://wired.jp/2017/07/02/minutiae-curious-app/
私たちは、SNSが当たり前になるつれてある変化が起きているのだとこの記事はいいます。
Instagramのようなアプリのおかげで、私たちは写真を撮る前に、「撮影する
価値はあるのか」をまず考えるようになっている。
確かに、多くの人が「インスタ映え」というのを考えていますね。この変化は日本人に
限らないようです。
この変化のおかげで、私たちは写真を撮るのに他人の評価をというのを考えてしまう
ようになりました。
「われわれはこれを『セルフプレゼンテーションの憂うつ』と呼んでいます」と、
ニューヨーク大学で行動マーケティングを研究するアレクサンドラ・バラシュは
言う。「シェアする目的で写真を撮るとき、私たちはまず、ほかの人たちがその
写真をどう評価するのか考えるようになります」
もともと他人の評価を気にしやすい水平世界を生きる(同じ年齢間でシビアな比較の
目に晒されるいる)若い世代にとってはそれはなおさらかもしれません。
この影響で、
人々は平凡な瞬間を記録するのを控え、かわりに結婚式や卒業式、大騒ぎした
夜など、人生の大きな出来事をカメラにおさめるようになっている。
ということが多くなり、その結果、
おかげで私たちは、たいして重要ではない瞬間を見逃すようになっています。
しかしそうした瞬間が、実は私たちの日常を特別なものにしていることが多
いのです
と、こんな完全にではないでしょうが、そうした傾向になってきているのは間違い
ないかもしれません。
如何でしょう。当たってますかね?
そういった状況においてえ出されたのがMinutieaというアプリだということです。
これは”考えさせる暇”を与えることなく、ユーザーが急ぎ写真を撮るよう強制する
アプリとのことです。^^;
このアプリは、
まず、ユーザーは1日に1回、ランダムな時間に、写真を撮るよう「Minutiae」から
指示される。1分以内に応えなければ、その通知はその日には二度と表示されない。
アプリを開き、カメラを構え、5秒以内にその瞬間を撮影しなければならない。
構図を考えているヒマはない。かっこいい被写体を探すチャンスもない。
とユーザーを非常にかなりのプレッシャーをかけるものになってます。果たして、
そんな強制力がかかったとき、人は写真を撮ること自体をやめてしまいそうにも
思いますが、とにかくこのアプリを使えば、
その結果、よりリアルなユーザーの生活の写真が撮れるとウィルソンは
説明する。「通常なら記録に残さないようなものを撮影するのです」
となるはずだと結論付けてありました。
果たして継続的な利用者がどの程度いるものか気になりますが、このアプリが意図
していることには深く共感しました。記事の最後はこう締めくくられていました。
「私たちは、いまの自分にとって日常的なことは、これからもずっとありきた
りなことだと考えがちです」とチャンは言う。「でも実際は、状況の変化によ
って、それまで当たり前だと思っていたことが突然そうではなくなるのです」
熊本地震を体験した私たちは、OG(13)飯沼が書ていたように、このことはよくわか
るのではないでしょうか。
何気ない一瞬を記録しておくこと。大事な場面はほっといても記録されていきますが、
大事な場面を演出している何気ない日常は意識しておかないとまったく残りません。
昔の庶民の生活は意外にわからないということです。庶民とはその時代の大多数で
あり、時代の日常をつくっている人たちです。あまりに当たり前すぎて記録することが
なかったからでしょう。将軍の献立はあっても当時の庶民の献立がどんなものだった
のか意外にないのではないでしょうか。
記録としての価値は圧倒的に「日常」の中に潜んでいるのではないかと思います。
<おまけ>
今日、東京ビッグサイトへの出張から熊本に戻ってきました。
帰りの飛行機はANAのWiFiサービスが使える機材でした。初体験。
機内ディスプレイでよく表示されていた飛行中の経路も手元で閲覧できます。
ネット回線自体は遅いものでしたが、メールなどの文字ベース、音声もまあストレスを
感じることなく使えました。
おかげで、帰った後にやらないといけない処理を機内でも作業することができて、
ずいぶんと快適(?)でした。
今日のガリラボ通信もほとんどを機内で書いたものです。
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