2009年12月6日日曜日

「健全なホラをふこう」とは

本日購入した本に「ビッグ・ピクチャー」というコトバがありました。
「大風呂敷」という意味です。
逆にわかりにくいですかね?
大胆に物事をとらえるという感じでしょうか。

この本の冒頭に、学者さんたちは、
  私の専門は○○です
といった発言をさらりと言う、とあります。
私自身は、あなたの専門はと聞かれて答えに詰まることがよくあるので、さらりという潔さが羨ましい限りですが、しかしどうしてその専門なのかということをその学者さんたちから聞くことはほとんどありません。
考えたことがないのでしょう、たぶん。

それ自体が別に悪いことではありませんが、しかしそれだけだと喪失感を感じるのです、私は。
空疎に感じてしまうのです、そんなのは。
自分の立っている足場が何なのかが分からないと不安なのです。
そういった性格なのでしょう、たぶん。

専門とは、空間的、時間的な様々なスケールの中にピンポイントに位置づけられる、限定された視野です。
多くの専門家は、そういった個別の視野が配置されている自分たちの足場であるはずの時空間に横たわる地図(足場)自体を見ることはほとんどしません。
視野狭窄的自己目的化というそうです、そんな状態を。
二代ほど前の学長がそんなことを言ってました。

今、3年ゼミの課題として、「自由な課題」という無茶な制約のもとで、10月になって動きだした3年生の県立大学調査チームは、苦しみながらも大学に散らばっている専門と言う名の限定された視野にいる人たちをまとめてしまおうという発想に至りました。
本人たちは自覚していないかもしれませんが、そういった地点に辿りついているように私には見えています。

なんと不思議なことでしょうか。
視野を限定しないという視野(形容矛盾してますが)を持つのは、実はガリラボ、特に私の研究テーマ(というか、自分自身に与えている継続的課題)でも実はあったりするのです。
ゼミでそんな講義をすることはほとんどありません。
直接そんなことをゼミ生たちに話したことがないのに、いつの間にゼミ生たちは視野を限定しない視野といった行動を取ろうとしている。

そんな不思議なことを説明するのが、正統的周辺参加論。
(正統的周辺参加論とはまったくもって恐ろしい理論です)

学習は教える行為に先んずるのです。
ほんと恐ろしい、限りです。


最後に、ガリラボの標語について一言。

輝く知性は行動無しには生まれない!との標語をガリラボが掲げているのは多くのゼミ生が知っているところだと思います。
もし知らなかったら破門したいと思います。(^^)

実はもうひとつ標語が掲げてあります。
かなり日焼けしたものが研究室のホワイトボードに掲示してあります。

健全なホラをふこう! という標語です。

ホラ=ビッグ・ピクチャーのことです。
健全な大きな目標のことを指し、そして行動でもってそれに立ち向かい自らの知性を高めていきましょう、とそんな思いを込めています。

3年ゼミの県立大学チームがやろうとしているのは、視野の制限された様々な人たちを、ひとつの大きな地図の中に位置づけていく作業に他なりません。
バラバラに活動している、様々な視野の人々を大きな物語(ビッグ・ピクチャー)でもって表現してしまう。
そんな健全なホラのもとで活動していくのが、ガリラボという専門が何なのか分からない集団の役割なんだと思います。
フィールドワークを基本手法とすると文化人類学とか民俗学に近い。
頭にビッグ・ピクチャーを固定し、右手にローテク、左手にはハイテク武器を携え、自分の足で見つけたフィールドをしっかりと歩いていきましょう。

(追記)

NHKで放送される「坂の上の雲」の本日のテーマは「青雲」です。
そのまま「あおいくも」のことだと考えてはいけません(まあ誰でもわかるでしょうが)。
「青雲の志」という意味でつけてあるのだと思います。
意味の分からない人は、辞書を引いてみましょう。
青雲の志とは、自分についての健全なホラ、ビッグ・ピクチャーに他なりません。
明治という時代はそんなビッグ・ピクチャーが存在した時代だったということです。
司馬遼太郎がそう坂の上の雲にも書いています。

小説「坂の上の雲」は今よく売れているようです。

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