朝からずっと、明日のシンポジウムの準備や年度末報告書作りの
打合せなどで忙殺され、一方で、ガリラボは2,3年生で賑やかで、
特に今日も早朝より、3年(11)藤本と2年(12)尾堂が勉強会をやって
おりました。
勉強の様子を横目で見ながら、私の方もシンポジウムに向けて
色々な資料を読み漁っておりました。
今回のシンポジウムは、大学の教育改善のためのツールについて
話をするものですが、その勉強のために読んでいた資料によって、
ふとあることに気づきました。
そうか、高校生まではクラスがあるんだな、と。
何を当たり前なことをと言われるでしょうが、大学にずっといると
そのことに気づかなくなっていました。
クラスがあるということは、つまり、居場所がある(自分の机もある)
ということです。
もちろん、いじめといった悲惨なことがないという条件でですけど。
高校生までは、学校にいつも自分の座ってよい場所があるという事実。
それだけのことなのですが、その事実に、軽いショックを受けました。
だって、大学生はそういうものがないわけで、それを当たり前と
思っていましたから。
大学生は、居場所を持たず、キャンパス内をさすらう人種なのですね。
直前まで居場所を持っていた人が、いきなり、放浪の旅に出される
わけで、しかも帰る場所がないという状況に追い込まれるわけです。
多くの人がそれをクリアしてくるわけですけど、クラスがない、居場所が
ないというのは新入生にとっては大きな試練なのかもしれません。
いや、たぶんそうでしょう、きっと。
その気づきもあって、夕方、残っていた2年(12)田中と坂本とそのことで
ディスカッションしました。
キャンパス内を放浪する運命にある大学生も、最終的にはどこかに
自分の居場所(ニッチ)を探し求め、安住の地とするのでしょうが、
そうした場所はどうやって決まっていくのでしょうか?
偶然の産物のような気がしないでもない。
サークルに入り、部室をニッチとする人、図書館をニッチとする人、
アルバイトを始めてそこをニッチとする人、さらには自宅(アパート)を
ニッチとしてしまう人、色々だと思いますが、どこをニッチとするかで、
使用していく言葉が違っていくので、それは先々大きな差になっていくのに
間違いありません。
田中、坂本の二人は、たまたまガリラボという場所をニッチにできている。
それはほんとにちょっとした思いつきや偶然からだったのに違いあり
ません。
だけど、そのことで、同級生たちとは全く異なる言語空間の中に
入ることになった。
アカデミックランゲージを頻繁に使うコミュニティの中に入ってしまった
わけです。
そのことは大きな違いになるでしょう。
二人ともに映像研究部に入っています。
きっと、単に映像研究部で過ごすよりも、ここガリラボの言語空間にいる
ことで全く異なる映像を創り出すようになる。
映像表現とは、どう言葉で表現していくかと同義だからです。
高いレベルの言語を操作できない人は、高いレベルの映像表現は
無理です。
そういう意味で、どこに居場所を得るかというのは非常に大切な意味を
持っていることがわかります。
大学生の最初の居場所というのは、後に研究室に配属になっても
なかなか修正が利かない。
特に非常に安定した居場所を見つけてしまった人は。
取りとめのない話題ですが、2年生の2人とちょっと真面目な雑談を
することなりました。
そうしているとき、電話で、シンポジウムの件で急ぎの仕事が入り、
残念ながら雑談は中止。
シンポジウムの仕事に戻りました。
明日午後からです。ガリラボからはこの2年生の二人(田中と坂本)も含め、
M1(13)坂口、4年(10)吉村、3年(11)藤本、2年(12)尾堂が手伝いに行ってくれます。
事務局の人たちと一緒に仕事していく裏方の仕事(受付とかなのでむしろ表です
ね!)とか、なかなかやる機会はないだろうと思います。
いずれも、ガリラボに居場所を見つけてくれた人たちです。
さすらうことを運命づけられた大学1年生が最初に辿り着いた希望の地「居場所」が、
その後の大学生活に与える影響は大きい!
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