2012年11月4日日曜日

人が育つということ

少し前、3年(10)森本から「ガリラボとは?」との質問を受けました。
「人が育つゼミ」だと回答しました。
ほら吹きサークルで、ガリラボについてプレゼンするため、その取材だった
かと記憶しています。

念のためと思い、記憶を確かめるため、ガリラボ通信を検索してみましたら、
見事に違ってました。orz
森本から質問ではなく、2年(11)上田と野口からの2年ゼミの課題の質問
だったようです(こちら)。
同じ日にほら吹きサークルのキックオフミーティングがあったため、その影響が
あったからでしょうか、二つを混同していたようです。
記憶とは、ほんとに当てにならないものです。
ガリラボ通信のおかげでそのことを思い知りました。
「選択の科学」を著したシーナ・アイエンガー教授は、記憶の曖昧さを、事例を
用いてコロンビア白熱教室で鋭く指摘され、だから人は(より良い決断をして
いくために)記録をつけていかないといけない、そう指摘されてます。
アイエンガー教授については、2011/12/182012/10/5のガリラボ通信で
触れました。時間があれば一読ください。
また、記録を通して成長していく、経験学習については2012/9/17のガリラボ
通信で解説しました。これも時間があれば復習するのも悪くないかも。^^;

話題が逸れました。本題は「育つ」ということを巡ってでした。軌道修正!
 
今急ピッチでやっている論文書きの合間にさぼって、人材開発を研究されている
方のブログを読んでいましたら、そこに「育てる」と「育つ」に関する話題が紹介され
ていました。
非常に興味深いものでした。
そっちのブログを読んでもらえればよいのですが(こちら)、私自身に関わる
部分で気になったのは、


一方で、全く逆から、すなわち「育つ側」の研究知見も見てみましょう。
たとえば、経験からの学習パラダイムにのった実証研究では、「挑戦を発揮し、
経験から学ぶこと(つまり、勝手に自分で育つこと)」を実現するには、当人が
どのような職場にいるかに依存することを明らかにしています。

すなわち、「組織側に十分な人のつながりがあり、セーフティネットがある場合、
さらには挑戦したとしても、自分の存在自体がおびやかされない風土が確立
している場」において、人は、「自ら育つ」のです。


という点です。こうした場所のことを安全基地という表現がされることもあります。
安全基地を持っているときに限り、人は挑戦する可能性が高くなり、ぐんぐんと
育つ方向に動いていくのです。
これは社会人に関する知見ですが、学生に対してもおおよそ成り立つのでは
ないかと思います。
上の引用の「職場」を「ゼミ」と読み替えれば良いはずです。
さて、上田と野口の質問に「人が育つ」ゼミと答えましたが、正確には、そういう
風土を作っていきたいというのが正しい回答なんだろうと思います。
ガリラボとは、ゼミ生が「自ら育つ」場所であろうとしているところだというのが、
正確なところかと思います。

上記ブログには、さらに、こういう記述が続きます。

そして、「自らを育もうとする人」を目の前に、他者は「支援」を差しのばすことが
明らかになっています、すなわち「自ら伸びようと思う人を、人は育てます」。
育成機会は、常に均等に配分されているわけではありません。リソースも限られて
いる中で、人は自らの育成資源(時間的資源)を、伸びようとする個人に配分します。
というか、「自ら伸びようと思わない人」に支援を差し出すほど、暇な人はいません。

これを読み、まったくその通りだと思いました。
講義という場については均等に知識を提供できますが、ガリラボのように、講義とは
異なる、単位とも無関係の課外活動を積極的に行うゼミの場合、それらはオプション
ですから、そこでは支援が均等に全員に配分されることはあり得ません。
繰り返しますが、それはオプションだからです。

先日、案内板チーム(3年(10)石原、漆島、清原)が調査から帰ってきて、その報告を
聞いているとき、何かの拍子にマインドコントロールの話題がでました。
その時、漆島が「たまに、先生にマインドコントロールされている感じがする」と話して
いましたが、それは少し違っていて、上の引用に書いてあることが行われた結果なの
ではないかと思うのです。
案内板という課題がガリラボに持ち込まれてきたとき、「やりましょう」と真っ先に賛成
したのが漆島と清原でした(本人たちが覚えているかどうかは分かりませんが)。
それをやるというのは夏休みを削り、自分の膨大な時間をそれにつぎ込む必要が
あることを最初から分かっていたのに関わらずです。
 
そんなとき周囲がすることは決まっています。人は、
  自ら伸びようとしてしている人に、積極的に支援する
のです。
そうなった時、人は「自らが育つ環境」を入手できる。
そんな関係にあるのではないかと思います。

案内板チームに限らず、伸びようとしていることを私自身が感じる人たちには、私自身
の時間や物的資源は可能な限り提供しているつもりです。
(忙しくなって時間資源が前に比べて激減してしまいましたが・・・)

「育つ」とは「育てる」とセットであって、両者がうまくかみ合っているときに
  人は自ら育つ
のであり、成長の軌道に首尾よく乗れるのです。
こうしたことは、学生でも社会人でも同じだろうと思います。
  
資源分配が不均衡な状況に対し、固有名詞をちょっと出していますが、ご了承を。
座したままで支援がやってくることはほとんどありません。
支援とは立ち上がってゲットするものです。

※書き進めている論文で、本日格闘していたところが、育成の話題であったので、
 今日はこんな話題になってしまいました。^^;

 
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