2012年12月18日火曜日

表現について日頃考えていることを少し


福岡からの帰りのバスの中が暗く本を読みにくいので、読書は諦め、揺れるディス
プレイに向かってガリラボ通信を書くことにしました。

さて、今日は今年最後の私の1時限目の講義でしたが、なんとゼミの男子学生2名が
欠席。
病気かと思いましたが、二人ともお昼にはガリラボに元気な姿を見せてくれました。orz
元気でほっとしましたが、とりあえず、試合終了に一歩近づいたようです。笑

お昼には10ゼミ生とのゼミ会議。
今回は少し不発気味に感じました(私だけかもしれませんが)。
たまにはこういったこともあるでしょうが、今年最後のゼミ会議だったのでちょっと
残念でした。
新しい年になったら、最初から飛ばしていけたらと思います。
だいたい、躍動感がなくなったらガリラボの持ち味は半減してしまうでしょうから。
単なる騒ぐのではなく、知性の芯を内部に持つ爆発が望ましい。

このゼミ会議の時に話し、昨晩も数名のゼミ生を相手に話したのですが、思いが
うまく伝わらないもどかしさを強く感じたので改めて文章で書いておきたいと思います。
 
表現を巡ることです。

どんなに良いものだと自分が思っていることであっても、それはうまく表現され、
他人が良いと思ってくれない限り、結局はあまり意味がないのです。
ただし、他人にとってはどうであっても、自分にとっては絶対的な大事なものは
ありえます。思い出とかですね。
ここではそういった個人にとってかけがえのないことは扱わず、例えば、先日の卒論
発表会のように他者に理解されて初めて意味を持つようなものは、それはうまく表現
されないといけない。
 
地域についても似たようなところがあります。いくら良い(と地域の人が思っている)
地域資源があったって、それは他人にとって価値ある形で可視化されない限り、他者
にとっては無意味です。
うまく表現されて初めて意味を持つ。
ここで、意味とは、ほぼ物語と一致します。
 
一心行の桜というのが南阿蘇にあります。
冷静に見れば、あれは、単なる桜です。
しかし、普通の桜と異なり多くの人を集めます。
何故でしょうか?
何故あれがあれほどに人を集めるようになったのでしょう。
その秘密は物語」にあります。
一心行の桜はただ単にあそこにはえている大きな桜の木ではありません。
あの木にまつわる、家族の物語が、あれにはまとわりついているのです。

単なる優れた技術を紹介するだけでは、オタクを除き、一般の人が感動することなど
ありえません。
iPodの普及には音楽再生機以上のものがあることはわかると思います。
こうした普及する技術には、物語、さらに言えば、神話のレベルに次元を上げた
表現が必要となります。

佐藤可士和さんとかが、デザインをしていくとき、即ち、対象の何かについての
表現を考えていくとき、その何かの本質を徹底的に理解するまで調べて、デザインを
決めていくそうです。
デザインとは表現に他なりません。
対象とする何かに徹底的に興味を持ち、どう表現すればその何かが持っている
本来の力を可視化できるか。
そうした努力があって初めて、その何かは多くの人に対して存在するようになります。
何かとは、その何か自体とその表現(デザイン、プレゼン)の共同作業によって
初めて実在となって、人々の前にその存在を主張し始めます。
 
私が、今、重要だと思っていること、ガリラボのゼミ生たちに持ってほしい能力とは、
後者の方です。
だって文系の立場で卒業していくわけですから。
アップルのステーブ・ジョブズと同じです。
彼が、この後者の部分を集中的にやって一般の人に神話を提供していたことは
明白です。
 
先週土曜日の卒論発表会で4年(09)中島の発表が心ある周囲に強い感動を与えた
のは(ガリラボ内で最優秀発表賞でした!)、物語の部分がしっかりと組み込まれて
いたからだと思っています。
論理だけの、正しさだけの無味乾燥なプレゼン(表現)は、人を理解させることは
できても、納得させることはできません。
そこには湿気を持った質感漂う物語性豊かな表現が必要なのです。
ガリラボの学生たちにはそうした能力を身につけてほしい。
それが圧倒的に難しいことでもありますから。
  
外が暗いバスの中で書いてきたせいでしょうか、内容がいつもと違う気がします。
が、このままアップします。
やはり、人とは、環境で思考も左右される動物のようです。
 


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