現在、AI(人工知能)についてのブームの真っ只中にあるかと思います。
新しいツールの誕生で、こうしたブームを過去に何度か経験しました。
コンピュータ、特に家庭用のパソコンというのが普及し始めた時のこと。
随分と騒ぎました。一部の人たちですが。
それが、コンピュータにCD-ROMが付属した時は画期的でした。
富士通からのFM-TOWNSというのがコンピュータが有名です。
家庭のPCから画像はもちろん、音も動画も表示できるようになりました。
CD-ROMが使えるようになって、「CAI」という言葉が登場し、CAIはかなりのブームとなりました。
ちなみに、CAIのAIはもちろん今のAIとは違います。
CAIはComputer Aide Instructionの意味でコンピュータに支援された教育の意味です。
CAIブームが起きました(もっとも教育関係においてですが)。
インターネットが普及すると、CAIはe-Learningというのに姿を変えていきます。
e-Learningも当時かなりのブームとなり、大学教育のあり方が問い直されたように記憶しています。
こんな感じで新しいものが出現すると、それに駆動されたブームが起きるようです。
そのブームは、それ自体も大切ですが、それ以上に、それまでやってきたことが果たしてそれで良かったのかという、反省を促す効果が重要ではないかと思います。
大正期に、寺田寅彦が「蓄音機」とエッセイを新聞に寄稿しています(参照)。
寺田は、夏目漱石の「三四郎」に出てくる野々宮先生のモデルになった人だと言われてる物理学者です。
寺田は、レコードを使って音声の再生が可能になった時、これで講義というものは代替でき、先生はいらないくなるのではないかという問題について考察しています。
確かに蓄音機に置き換えられるような講義もあるわけで、寺田はそれを次のように述べています。
学校の講義と言ってもいろいろの種類があるが、その内にはただ教師がふところ手を
していて、毎学年全く同じ事を陳述するだけで済むものもある。そういうのは蓄音機
でも代用されはしないかという問題が起こる。
それからまた黒板に文字や絵をかいたりして説明する必要のある講義でも、もし蓄音
機と活動写真との連結が早晩もう少し完成すれば、それで代理をさせれば教師は
宅(うち)で寝ているかあるいは研究室で勉強していてもいい事になりはしまいか、
それでも結構なようでもあるがまたそうではなさそうでもある。こういう仮想的の
問題を考えてみた時にわれわれは教育というものの根本義に触れるように思う。
私は蓄音機や活動写真器械で置き換え得られるような講義はほんとうの意味の
教育的価値のないものだろうと思っている。もし講義の内容が抜け目なく系統的に
正確な知識を与えさえすればいいとならば、何も器械の助けを借りるまでもなく
その教師の書いた原稿のプリントなり筆記なりを生徒に与えて読ませれば済む場合も
あるわけである。甲の講義を乙が述べてもそれでたくさんなわけである。
機械に置き換えられるようなものであったならば、それはそもそも教育とはほど遠かったのだということです。
大正期の考察が、21世紀の現在、胸に突き刺さります。
機械に代替されない、人間の本質的な部分とは何なのでしょうか。
教育に関して、その本質を考えたとき、寺田は、上記に続けてこう述べています。
しかし多くの人が自らその学校生活の経験を振り返って見た時に、思い出に浮かんで
来る数々の教師から得たほんとうにありがたいたっとい教えと言ったようなものを
拾い出してみれば、それは決して書物や筆記帳に残っている文字や図形のようなものでは
なくて、到底蓄音機などでは再現する事のできない機微なあるものである事に気がつくだろう。
ガリラボの卒業生は、卒業してから何を有り難いと思ってくれているのでしょう。
もしひとつでもそうしたことがあるならば、今後はそれはちゃんとやっていきたいと
思います。
AIによって、今後色々なことが置き換えられていくでしょう。
そうしたことはAIに始まったことではなく、これまでもたくさん同様のことがありました。
AIブームとは、AIそのものについて考えないといけないというよりも、今現在やっていることについてその意味を深く考えるよう要請しているのかもしれません。
パスカルの言う通り、人間とはやっぱり考える葦(あし)なのだと思います。
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