ガリラボの学生ではないのですが、私がちょっと関わっている1年生たち
およそ15名ほどの活動が凄まじいのです。
まだ最初だからかもしれませんが、それにしても自発的にどんどん活動しています。
誰かから強制されてやっているわけではありません。
自発的に、勝手にみんなで相談して分担を決めてやっているのです。
驚きです。
もっとも完全に自由というわけではなくて、ある制約を私やその他から若干与えられて
います。
ひょっとすると、その制約があるおかげで、彼らは自由に動き回っているのかもしれません。
サッカーという競技が、手を使ってはならないという不合理な制約があるために、
逆にそのおかげで異常に発展してきているのと同じではないかとも思います。
サッカーに仮にルールがなかったら、きっとこれほどに世界規模で普及するほど
面白いスポーツに発展することはなかったでしょうから。
同じように、1年生もまったくの自由だったら15名がまとまることもなく、自発的な行動は
生まれなかったかもしれません。
制約は創発の母のようです。
ゼミ新聞にも書きましたが、隈研吾さんの本を読んで、感動したのが
制約は母である。制約からすべてが生まれる。
というコトバでした。
制約があってこそ何かが新しく生み出されるようです。
1年生たちは現在の制約を素直に受け入れ、その枠組みの中で必死で、彼らなりに
考えていくことで、その枠組みを超えるような新しい発明をキャンパスの中に生み出し
ているようにぼくには見えています。
彼らが継続して書いているブログにその一部を見えることができます。
明後日、その創造の現場に立ち会う予定です。
そんな場に立ち会うことができて、僥倖、大変な幸運を感じています。
制約=公理系=枠組み=不自由さ。
制約は、最近改めて私の辞書に追加した重要なコトバになりました。
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