本日はガリラボとはほぼ関係なく、そして脈絡なく綴っております。
昨日手にした「人間らしさ」を読了しました。
現代って、本人よりもデータベース(コンピュータ)側が色々なことを知っています。
例えばAmazonだと私以上に、私の買った本のことを記憶しているわけで、その結果、
私が読みたい本をAmazonがお薦めしてくれることになります。
こうしたデータベースと接続した音声認識機能を持つロボットがもしも身近にあると、
それは少なくとも知的な領域ではドラエモンと何ら変わらない働きをするだろうと
思えます。
このロボットに問いかければ、過去の私のデータを全部洗いだして、そこからこうした
方が良いのではないかとアドバイスをしてくれるでしょう。
非常に効率的に行動することが可能になるでしょう。
便利そうです。
ただ、「人間らしさ」の著者上田さんはそうした世界を「なんか嫌だ」と言います。
私もそう思います。
時間があまりないので、うまくまとめられませんが、この本は、人間らしさを考察し
ながら、大学のリベラルアーツ教育のあり方へと最後には話が展開していきます。
偶然、手にした本でしたが、勉強になりました。
読み終えて書棚におくと、その横に強く変色した文庫本があります。
古書独特の臭いを放っています。
地震で片づけを余儀なくされ、その過程で、本棚の奥から出てきたもので、いつか
また読み直したいと思い、目の届くところにおいています。
次は、上巻と中巻のそれぞれ1頁目です。
「第1章 あんだ りょげんば もって えだが」とあります。
言葉を縦横無尽に操っておられた井上ひさしさんらしい、ほんと傑作です。
本の奥付を開くと、1990年頃に読んだようです。もう25年以上前のことになりますが、
その時の衝撃がずっと残っており、それが現在「玉名国」というアイデアへと
繋がっています。
その頃、宮崎に住んでおり、結婚し2人目の子どもが生まれ、悪戦苦闘していた頃で
すが、それがまさかその時の読書が、今につながることになるとはですね。驚きです。
人生、何がどうなるのか未知数です。
そうした偶然性が実は人間らしさと繋がっているというのが、上田さんの主張のひとつでした。
余談ですが、悪戦苦闘と書きましたが、これに関して、「人間らしさ」の中で上田さんが
こんなことを書いておられました。
私の場合、もう子どもを持てないだろうとあきらめた時期もあったのですが、
40歳代後半になって長女を授かりました。
それまでずっと毎年の休暇には世界の秘境のようなところを妻と2人で旅行して
回っていて、それはそれでとても楽しいですが、いつからか自分の成長が止まった
ような感じがしていました。
ところが、子どもができてから再び人間的な成長が始まったように思え、子どもを
授かって本当によかったと思っているところです。
この感覚は私も(ある程度)わかります。私がシステム論的思考の呪縛に気づき、
それから抜け出せる(要するに成長です。ただし、エンゲストロームのいう水平
方向の成長です)契機を与えてくれたのでした。
子どもたちのおかげで、自分だけでは絶対に行かないはずのところに出かけること多く、
それは随分と色々な変化を与えてもらいました。
そしてさらに私の場合は、ゼミ生がいます。
多くのゼミ生たちとの出会いが、それに応じた色々な出会いをもたらしてくれます。
玉名市と今のお付き合いをすることになったのもゼミ生のおかげですし、また考えても
いなかった書籍(組織認識論、エスノグラフィー、エスノメソドロジー、ワークショップ等々)を
手にせざるをえないことになっていったのもゼミ生が色々な活動をしているからでした。
成長の機会を私自身がゼミ生に与えていることは言うまでもないことですが、逆に、
それと同じぐらい、私自身がゼミ生から成長する機会を与えてもらっております。
最もそれが可能であるには、互いが「人間らしい」関係でないといけないでしょう。
最近あまりガリラボにいないため聞けていないのですが、真摯にかつ謙虚になって
向き合い、声をちゃんと聞いていかねばと、上田さんの本を読み終えて強く思っている
ところです。
思っていますが、、、難しいことです。
とりあえず、そのためには時間を作る必要がありますが、今のところ6月20日までは
とても無理そうです。^^;
このエントリーをアップしようとしてたら、本日のNHKスペシャルでゲーテの次の言葉が
紹介されました。脈絡ありませんが、紹介します。
いつも遠くへばかり行こうとするのか。見よ、よきものは身近にあるのを。
ただ幸福のつかみ方を学べばよいのだ。幸福はいつも目の前にあるのだ。(by ゲーテ)
確かにそうだなと思います。
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