2013年9月25日水曜日

魔性の期間が終わる


最近出張が多いです。今日も朝から新幹線で福岡へ。
行き先は福岡工業大学。
現在キャリア教育をメインターゲットに学修評価の枠組み構築のリーダーとして
プロジェクトを推進しています。
そのプロジェクトは九州沖縄山口地域の23大学とも連携しており、今日は
その全ての大学が集まる会議でした。
なかなかの会議です。
23もの大学をよい形で連携させていくのは難しかろうと幹事校(福岡工業大学)の
大変さが想像されます。
お昼休憩時、A大学の担当事務局の方と一緒になり、食事しながら初めてじっくりと
話しましたが、テニス部の監督をされているとのこと。
興味深い話でした。
A大学のテニス部は九州で強豪らしいのですが、テニスを教えるというよりも、
きちんとした生活をするための指導が圧倒的に多いのだそうです。
ところが、そういった指導で、テニスもかなり上達していくのだそうです。
元々テニスをやってきた人たちらしいので、それを聞いて、それはそうだろうなと
思いました。
スポーツとは、普段の生活の上に成り立つものだからです。
生活がしっかりしていないところでスポーツなどできるはずがありません。
(オリンピックに出場できるスポーツ大国は基本的に生活が安定しているところで
 あることに注意すればそれは明らかでしょう)
何かを成し遂げるのに必要なインフラを侮ってはいけません。
それは動機をも生み出すのですから(レオンチェフがそんなことを言っている
らしいですが、まだ文献をしっかりと読んでないため、本当かどうかは不明)。
動機もそうですが、安定した生活リズムそのものが重要です。
だって、スポーツって、基本的にルールに忠実に従って進行するゲームだからです。
デタラメな生活をしている人が、ルールを忠実に精密に従って、さらにはクレバーな
プレイができるとは思えませんから。
よく例に出しますが、イチロー選手を見ているとそのことは明らかではないでしょうか。
生活を完璧にルール化して、リズムを作り、単調なしかし頑健な流れの中で生きているのですから。
このことってたぶんスポーツに限らないでしょう。
知性を鍛える勉強にも通用することだろうと思っています。

と考え、私もできるだけそれを真似ようと、生活を同じパターンで繰り返すことを
可能な限りやっています。
他人から見ると、単調で「それで面白いの?」と思われそうです。
が、実際はそうでもありません(単なる負け惜しみかもしれませんが)。
変化とは、そうした単調さがあって初めて気づけるはずだと私は考えています。
ルールを持たない、それゆえ基盤(インフラ)が揺らいでいる人は、変化に気づきようがない。
自分が変化しているからですね。
※昨日のリーダーシップのコトバを使えば、現在地(足元=基盤)が不明瞭なわけ
ですから、この場合は、遭難に該当しますね。
変化がわからないから楽しさもない(遭難して楽しい人もいないでしょう)。
単調さの中にいる人の方が、その変化しない物差しを使って初めて多様な変化を
キャッチでき、その結果、色々な変化を楽しめているのではないかと思うのです
(例外はあるとは思いますけれど)。

いつでもどこでもを実現するコンビニやケータイとかは生活のルールを破壊する
ものとして登場しました。
また、コンビニはお腹が空いたら行動するという本能に従う人たちを生産して
います(人間を動物化させている)。
ケータイは話したいときに話すという本能のままにコミュニケーションすることを
可能にしました。

話がずれてしまいました。そろそろ終わりですので、軌道修正します。
海を見る自由というのは、デタラメとは全く異なります。
(矛盾した表現ですが)自由には制約(=自己規制)が必要だろうと思います。
制約なしの自由は、人を動物化をする方向に促すことになりかねないのでは?
どう思います?

最後に、自由って、制約を自分に自由に与えることができる自由でもあることも
忘れないようにしておきましょう。
私が知っている範囲ですが、でこぼこフレンズのメンバーは一定の成果を夏休みに
上げました。
この人たちは、講義が何もない自由をあえて放棄し、自分たちに自分たちの意思で
制約を与えたわけで、それがクリエイティビティを強烈な動機を生み出す原動力と
なったのでした。
夏休みという人間を動物へと引きずり込もうとする魔性(暗黒)の期間に、強烈な
制約を自らに課し、それを通して、ホモ・サピエンス(知性的な人)として活動し
てきたのがでこぼこフレンズだったのだろうと思います。
 
動物化の道へと人を引きずりこむ魔性の期間もようやく今週で終わります。
気づけば、外は秋です。

  

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