「<持ち場>の希望学」を読み、一番グッときたのが「褒められない人たち」という章。
「希望学の視点」で、東大の中村教授が、釜石市役所職員の震災後の様子を描いたものです。
この章のプロローグで紹介されていた中村教授の小学校の先生の言葉「むしょうよ、むしょう」
にはさらに惹きつけられことは前に紹介した通りです(ガリラボ通信2016/5/15)。
ガリラボ通信の日付からわかるように、「褒められない人たち」を読んだのが熊本地震から
1ヶ月が過ぎてのことでした。
この時ようやく本が読めた(眺めた程度ですが)ようで、今思えば、私にとっての一つの日常を
取り戻せたときでした。
この意味で、私にとっての震災から一区切りの時期は、大学を再開してから1週間が経ち、
大学のスタートを一通り確認できて、本に向かう余裕ができたときだったようです。
そしてまたそれから4ヶ月が経ったわけですが、途中、中村教授の別の本「絶望なんかして
いられない」の存在を知り、それを入手し、朝からそれに目を通していました。
その中に、希望の定義が再掲されていました。希望学では、希望を
Hope is a wish for something to come true by action.
希望とは、「何か」を「行動」によって「実現しよう」とする「願い」である。
と定義します。この定義から、
希望が持てないとは、「何か」をなかなか思いつけないか、思いついたとしても「実現」
できる自信がないのか、あるいは実現するためにどんな「行動」を取ったらよいのかが
わからないのかのいずれかになる。
ということがわかります。この3つのどれが欠落しても希望へと結びつかないことを定義は
教えてくれています。
つまり、希望を持てないと言う場合、この3つに着目すればよいわけです。
希望学は、キャリア形成論という授業を担当することになって知ったものでした。
それから、「希望学」という言葉の響きに惹かれ、憧れ的なものとして私の中にあったのですが、
いつもそれは憧れのレベルでした。
ところが、熊本地震でそれが変わりました。
「<持ち場>の希望学」にある質問を真似て、「震災後、何か変わったことがありますか?」との
質問を今は大津町のみなさんにしているのですが、改めて私自身が変わったことは何だろうと
問われると、思いつかなかったのです。
しかし、今朝、中村さんの本を読みながら、私の中で変わったことがわかりました。
もやいすとジュニア育成の授業を震災バージョンに改編したことがひとつです。
そのせいで、関係者に多大な迷惑をかけていますが、この行動を開始したことは非常に大きな
変化であったと思います。
もちろん、この路線変更は、かなりの葛藤を経た上での決心でした。
震災直後からしばし大学に泊まっていて、仮眠していた副学長室の椅子の上で考えていて、
それがある方との対話を通し覚悟を決めて実行すべきものであると、授業再開の日ぐらい
までには決心したのでした。
その時の様子はガリラボ通信2016/5/4 ガリラボ通信2016/5/9 等に残しております。
もやいすとは、まったく新しい挑戦になっていて、再設計作業と実践にIR室のM08佐藤やCOC
推進室のM16山口には多大な苦労をかけています。
が、この行動は、大学におけるひとつの希望の実現に向けた行動となっているのは間違ないはず。
そういった視点でこの取り組みを見てもらうのも大事なのかもしれません。
もやいすとの主役はもちろん学生たちではありますが、真の主役は、それを<持ち場>として
実現に向けて行動している佐藤や山口のような「褒められない人たち」であろうかとも思います。
それ以外にも変わったことがあります。
希望学に対する態度です。
地震前は、希望学はただ知ってるだけ、せいぜい授業で紹介する程度、基本的に言葉だけで
行動のないふわふわしていたものでした。
しかし、地震を経て、学生たちの卒論やゼミ活動のテーマにして、一緒に行動を開始しました。
希望学を実践するという行動を開始したのです。
Coho'zuと一緒に、そして今後はHope+とも一緒に希望学を実践していきます。
この行動は、震災の記録を残していくという大きな目的もありますが、中村教授の本を読みながら
もうひとつのことがあることに気づかされました。
それは、自分たちのため、ということ。
中村教授は、希望学は体系的な学問ではないという批判があることを指摘し、それが正しい
と認めた上で、しかし希望学は、定義
Hope is a wish for something to come true by action.
を触媒にしながら、自分たちがやってきたことを見つめ直す働きを持っていると主張し、こう
書かれています。
体系的な学問になっていないという批判は正しい。だが、そう批判する人々は
希望学という体系を与えてもらおうと待っているだけである。 希望学を味わおうと
するならば、その姿勢では不十分だと私は思う。
希望学を実践し、あるいは希望学と格闘することを通じて、自らを広げていこう、
変えていこうとする姿勢こそが大切なのではないか。
これを読み、まったくその通りだと思いました。
本来、学問とは自らの内面を鍛えていくため、陶冶のためにありました。
希望学を実践し、希望の意味を考え行動していくことは、中村教授の言う意味で
大切なことかと思います。
本日、Coho'zuは大津町に取材に出かけました。東熊本青年会議所の理事長さんの取材です。
なお、本日、東熊本青年会議所主催で地域についてのシンポジウムがあったようです。
なんと壇上に3年(14)児玉と谷口がいるではないですか。びっくりですね。^^
(以上の写真はCoho'zuリーダー4年(13)上田から報告メールからの抜粋です)
熊本地震を契機に、希望学と格闘を始めたCoho'zuがいます。
またこれから益城町をフィールドに希望学と格闘するHope+もいます。
私もこれらのメンバーと共に活動にしっかりと参加し、熊本地震を契機に、希望学を触媒に
しながら自らを広げていきたい。
そんなことを今朝、本を読みながらそう思いました。
余談ですが、もやいすとジュニアの1年生には本日締め切りの宿題を出しています。
自分で震災関係の本を読み、それを要約しなさい等のいくつかの宿題を課していますが、
昨日までに提出した学生の中で任意の感想として
・もやいすとの授業が本格的に始まる前に事前に勉強することができ、
とてもためになりました。
・非常に良い勉強になりました。ありがとうございます。
というのがありました。短い感想ですが、読んで思わずほっこりとしました。
勉強するってやっぱり良いことですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿