2016年3月6日日曜日

2年ぶりのKW塾メンバーとの再会

昨晩、並木坂にあるフレンチのお店「アスペルジュ・シェフズターブル」におりました。

 
大きなアスパラに驚き・・・

苺と野菜の組み合わせの綺麗さに驚きつつ、話題を弾ませながら・・・


約2年ぶり(前回→ガリラボ通信2014/2/8)のKW(ノットワーキング)塾メンバーとの
再会でした(何人かメンバーが追加されたようです)。
おそらく、今後もこのままの形で継続していくことはないでしょう。
2016/3/5夜
  
KW塾は2008年4月に勉強会として発足したものでした。
月に1度の勉強会として始まりました。
勉強会のはずでしたが、その枠を越えて、いつの間にかフィールドに出ていく
ようになりました。
最初の活動は2008年8月。
玉名市岱明でのフィールドワークでした⇒その様子

2008年度の9回目のKW塾を開催した時の私の公開メモ(2008/12/11)が残っていて、
それに次のように書いていました。
---------
ノットワーキング(knotworking)塾は、顔見知りが集まって2008年4月から始めた
私塾の名称です。
津曲研究室を会合場所として月に1度勉強をしようと始めたものです。それがもう
9回目になります。
いや、わずか9回、と言った方がよいでしょうか。大学の半期の講義回数にも足り
ないわけですから。
大学の半期の講義で何か目覚ましいことが起きるとは思えませんが、ノットワー
キング塾はわずか9回で大変革を遂げました。
当初、静かな勉強会サークルの予定でした。それが、良い/悪いの価値判断は抜きに
しますが、動的な活動サークル(実践の共同体)へと変身したのです。
ノットワーキングとは、直訳は「結び目づくり」ですが、
  人々が即興的に関係を作ったり、壊したり、作り直したりと、つながりが変化し
  続けるダイナミックな活動
を意味する言葉です。
そんな思いを込めて名称をつけました。ただし、参加しているメンバーの顔ぶれには
ダイナミックな変化はありませんでした。
が、そのメンバーが外からの偶然を呼び込み、津曲研究室という場でその偶然がつな
がっていくことになりました。たとえば、
  12月11日の塾では勉強会の後に菊陽でのフィールドワークの行動確認をしま
  したが、菊陽の豊後街道三里木界隈でそれを実施することをになったのも、7回
  目の塾を菊陽で開こうとなった時にメンバーの黒田さん・坂本さんがたまたま三
  里木町民センターを確保したからでした。
  町民センターに出向いた津曲が三里木駅を見て、今から思うとちょうど裏側から
  駅を見たのでそう見えたのですが、寂れた雰囲気がなんともいえず、「ここでフ
  ィールドワークしよう」と決めたことがきっかけでした。下見に行って表から駅
  前見たら、全く違う印象でした。
  素晴らしき誤解だったと思います。
  またノットワーキング塾が市町村職員向けの研究プログラム開発という目的を共
  有する共同体に変化してきているのですが、これもほんとにたまたまです。津曲
  が市町村研修協議会で講演したこととその職場に塾メンバーの米山さんがいたと
  いうことが引き金になって、偶然、プログラム開発という目的が生み出されまし
  た。全くの偶然です。
偶然という要因がノットワーキング的に活動して、その結果、塾はアクティブな実践
の共同体へと相転移を果たしたわけです。
ほんとに4月当初からすれば、誰も予期していなかった結果だと思います。
偶然が、次の偶然につながりをつけながら、塾は転移を繰り返してきました。わずか
9回ですが。
しかしながら、当初の予定通り、塾の寿命は残り3回ほどです。
3月末で解散予定です。
その先は誰も考えていません。たぶん、偶然がどこかへと導いてくれるはずです。
------------

メモにある通り、KW塾は2009/3/24に一応の解散をしました。⇒その様子
解散しましたが、新しい年度になってメンバーが少し変わり、その後も活動は
継続しました。
例えば
 ⇒豊前街道フィールドワーク(2009/9/16)
 ⇒研究発表会2009/9/26

昨晩のメンバーの皆さんも新年度になるとそれぞれにまたダイナミックな変化を
伴いながら、新たな活動へと向かっていかれるものと思います。
面白いものへと発展していくと良いですね。
私自身ももちろん、4月から新たなガリラボのゼミ生たちとまた新しいステージへと
向かっていきたいと思っています。

私にとって3月とは、そのための作戦タイムの時期になっています。


ところで・・・・

「KW塾」でガリラボ通信を検索していましたら、2012年2月のエントリーに
遭遇しました。
  ⇒メディアは思考を変えるガリラボ通信2012/2/10
このエントリーに今年度の「しょせきかプロジェクト」につながることを書いて
いました。
偶然発見したものですが、あまりに偶然すぎて、これって必然なのではないかと
思ったほどです。
立花さんは、「二十歳の君へ」は大変だったと言われていますが、私については
そんなことはありませんでした。
私ではなく、ゼミ生が非常に大変そうでした。
特に13ゼミ幹部は本当に神経を使う作業の連続でした。
だけど、その苦労があったからこそ、「どりぃむ」の水準を高いレベルに持って
いけたのだと思います。
間接的にですが、3年(13)塚田やそれ以外の方などからいくつか心温まるメッセージを
聞くことができました。
明日は、数ヶ月間、苦労の真っ只中にあった13ゼミ幹部と慰労会を行う予定です。
慰労会もですが、幹部が揃っているのでワイワイ言いながら、4月からの活動に向けた
作戦も練りたいとも思っています。
 
 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿