2013年11月11日月曜日

ガリラボの成長の道具=白亜祭参加

ここしばらく土日も無しに白亜祭の実施に向け、私自身の時間のほぼ全てを
捧げていました。学生たちはそれ以上に頑張っていたので、老体に鞭打ち、
必死でついていったという感じで、完璧に没頭していたように思います。

祭りの後の気怠さを感じながらも、今日は特にノルマもなかったので(昼休みの
10ゼミ会議だけ)、久しぶりに自分の仕事に集中することができました。
とりあえず今日やろうと思っていた仕事は終わったので、白亜祭について考えて
いたことの一部を少し書いてみようと思います。

実は初日のUstream放送で、冒頭でインタビューを受ける予定でした。白亜祭に
どうして参加しようと思ったのかとかそういったことだったと思います。
ところが、機材不調で、復旧に30分ほどかかったため、私のインタビューはカット
となりました。
カットは私から言いだした気がします(もっとも、誰も改めてやりましょうとも言わ
なかったと思いますが・・・orz)。
だって、真面目に話をしてしまう気がしたんですよねぇ。
理由は簡単。真剣に考えていたことだったからです。
楽しいオープニングとは無縁になってもですねぇ。
機材不調は不幸中の幸いでした(わざと私がそうしたのではありません)。

さて、白亜祭に参加しようと思ったきっかけですが、いくつかあります。
ひとつは、大学の学生祭があまりにサークル色が強すぎて、特にバザーばかりが
目立ち、単なる祭りとどこが違うのかと感じていたことがあります。
文科系サークルはもちろん展示などしていて頑張っているわけですが、大学って
サークルで作られているわけではありません。
大学って、学科から成るもので、そこに色々な専門を持った人たち、専門を
鍛えている人たちがいるわけです。
どうしてそれが出てこないのでしょう。
鍛えているはずの専門の力を一般の人たちに公開する貴重な場ではないかと
思うのです。
そういった場は、自分たちのやっていることを、大学の関係者でない、その専門とは
遠い地点にいる他者に伝えなければならないわけで、学生たちには、研究発表など
より遥かに高いコミュニケーション能力が要求され、その育成につながるだろうと
思っています。
そしてさらに、それによって専門に閉ざされてしまいがちな(学部生でそのレベルまで
行くこともなかなかないとは思いますが)考え方を、他者の力を借りて広げていくことが
できるだろうとも思うのです。
このことは私自身にも降りかかってきます。
専門用語だけ使っていれば楽な研究室を飛び出して話をするのはかなり辛いものです。
一般の人たちに通じる言葉を学生たちと一緒に創り出していかないといけないからですね。
大変ですが、そのことは自分の持つ前提(常識)を考え直すきっかけを与えてもらえます。
それが次の活動のアイデアの源泉に繋がっていく可能性を生み出してくれる貴重な
機会にもなっていると考えています。
(今回は、デジタルとアナログの融合、未来、インプロなどが今後の新たな発展を
促してくれそうに思っています)

上とは別に、もうひとつ考えていたことがあります。
白亜祭というガリラボにとってはビッグプロジェクトを行うことは、単独の学年ではとても
ではないけれど実行は無理です。
そのことが非常に重要で、願ってもない制約(または矛盾)を持ち込める可能性を
創り出してくれます。
 
横の連携はゼミという活動を通して可能です。
それによっても多様な学習の場を提供はできます。
しかしそれはどんなに頑張っても平面的な運動にしかならない。
平面運動だけだと、極端なことを言えば、仲良しクラブになってしまう。
安住するところに安住して、成長を避けてしまう可能性がある。
安住する場所はプライベートなところだけにすべきで、大学にいるときに安住など
していては成長など期待できません。
常に緊張の中にいないと成長などないでしょう。
大学って成長するべき場所です。
成長を志向しないことは基本的に好きでなく、だからゼミ生がそんな方向のことを
やっていると気分が悪くなることも、しばしば・・・(顔に出ていると思いますけど笑)。

白亜祭に参加するということは、<学年を越え>て<長期に>活動することとなり、
緊張を育む学びの場として機能するだろうと考えていました。
それは研究室の成長にとっても重要です。
教員がいくら頑張っても、学生が成長していかない限り、研究室としての成長は
あり得ません。
そのためには学生たちは上の学年を踏み台にしていくことが必要です。
巨人の肩の上に乗らせる!
成長には、そうした仕組みを研究室の中に組込んでいくことが必須です。
そのためのツールが白亜祭でした。
研究室内での研究方法論の伝承について、よく引用する中原さんが、同じような
ことを書かれています(こちら)。
大学にいる以上、大変大切なことだと思うので、一度読んでおくといいでしょう。
何かを学ぶとは実践することであって、一緒にひーひーと言いながらやっていく
特に学年を越えた仲間を得ることがポイントとなります。
このことは正統的周辺参加論が教えてくれるところでもあります。
だから私も傍観者とならず、学ぶために、できるだけ白亜祭の参加の向け、可能限り
時間をつくり一緒に知恵を絞り、作業もしてきました(主として幹部の人たちとですけど)。
 
たぶん、そうした実践の中にいるときに、非常に効率よく知識が上下に流れて
いるはずです。
実はこの現象が、上の学年を踏み台にして次の学年が新しいステージに上がって
いくことを可能にしています。
卒業生の何人かがツイッターなどで、ガリラボはパワーアップしていると書いて
いました。
もしそうであるならば、学年を越えて白亜祭に参加していることがうまく機能して
いるということでしょう。
白亜祭というビッグプロジェクトに参加することがガリラボの成長を促してくれて
いるのだと思います。

ガリラボというコミュニティにとって、「成長」というターゲットに対し、活動理論で
言うところの道具に相当するのが「白亜祭への参加」と言えそうです。
他にも道具はたくさんありますが、これはその中でも大変重要な道具と言え
ます。
 
ということで、来年も参加したいと思っています。ゼミ生がその気になってくれ
ればですけど。
(あるゼミでは、参加をゼミ生に促しても何の反応してくれなかったとのことでした)
 
でも、たぶん大丈夫だろうと昨日確信しました。
昨日、みんな疲れ果てたので19時には帰っていきました。
その後、誰もいなくなったガリラボで静かにリフレクション代わりにガリラボ通信を
書いていたら、21時過ぎになって、静寂さを破って廊下から足音がこちらに近づ
いてくるのが聞こえてきます。
誰だろうと思いつつ耳を澄ませていました。
案の定、ガリラボに入ってきました。
2年生(12)坂本と田中でした。
「手伝えなくてすいません、片付けとか手伝うことがあればと思ってきました」
とのこと。
サークルの方に行ってた二人ですが、何だか人間のつくりが違うのでは
ないかと思ってしまいます。
(自分に置き換えると、「たぶん終わっているだろう」と自分に都合の良い解釈をして
 わざわざ来ないだろうと思います)
そんな労力を厭わない、こんな人たちが所属しているガリラボなのです。
だから、きっと来年も大丈夫でしょう。
そう確信してます。
今からもう楽しみです(ちょっと早いですかね笑)。 



<おまけ>
今日は11月11日でポッキーの日らしいです。
虚脱感溢れるガリラボには今日はポッキーは全くおいてなかった気がします。
私は、次の糸井さんのツイートに強く反応。

 
そうかと思い、30秒ほど前から構えて、こんな写真を撮ってみました。


11/11/11:11:11 自体は、PCの時計表示なので、その時計自体が
合っているのかどうかよくわからないのですけど・・・ 
一応、気分だけでも、と。  ^^;
  

11/11/21:09 まだ4年(10)辛島が白亜祭の未来の郵便の郵送作業に向けた
作業をやっています。おおよそ片付いたようです。ご苦労さまでした。
 

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